正道有理のジャンクBOX

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― 他の動物より人間が優れているとすれば、蓄積された知識や経験から自分の行為がもたらす成果や結末を予測し得ることである ―

正道有理のジャンクBOX

メディアの世論誘導に抗して、全力で安倍政権打倒へ

公明党の果たしている犯罪的役割

 第48回衆議院選挙の投票日まで、あと一週間を切った。

一体この選挙がなぜ行われようとしているのかを考えると、この選挙で何を獲得すべきかも明らかになる。

つまり安倍政権はなぜ解散したのか、という問題である。

それは、言うまでもなく、第一には森友・加計学園問題で最早言い逃れができないところまで追いつめられていたという事である。

だから、国会での審議にも応じず、官房長官の記者会見でも答えをはぐらかし、揚句には記者クラブには属さない東京新聞・望月記者の質問には開き直って見せたのである。

そして第二には、このような問題がなぜ起こるのかといえば、国会の議席の多さに慢心し、政権を私物化しているからである。

ところで、自民党は1958年ごろから1980年代にかけて270~300議席近くを占めることはむしろ多かったのである55年体制の崩壊により旧民主党ができ、自民党内の一定のリベラルな部分がこれに合流し、自民党議席過半数を割り込むようになり、1999年に自公連立政権が作られる。こうして自民党創価学会公明党の支持基盤に寄生しながら政権を維持してきた。口先では「日本のため」とか言いつつも、その実「保守」としてさえデタラメな、ただ議員特権と利権にしがみつく私党集団に成り果てたのである。

ここで、われわれは自民党が単独で過半数を取っていた時期よりも政治が劣化し、民主主義がないがしろにされ、憲法無視まで行われるようになってしまった事に注意を払わねばならない。普通なら、公明党が連立与党であるならば自民単独よりも「真っ当な」政権運営が行われていい筈ではないのか?

つまり、そうなっていないところに公明党の極めて犯罪的な役割が浮かび上がってくるのである。いったい何が「ブレーキ役」だ。何が「平和」の党だ。

まず自分の身(=民主主義と人権)を守ることを優先しよう

安倍政権が解散を強行した第三の問題は、この選挙を改憲の是非を問う最後のチャンスと考えているという事である。これ以上引き延ばせば、政権への支持率は下がることはあっても上がることはない。

だからこそ、この選挙で安倍が勝利を収めるということは、国民が改憲」にフリーハンドを与えたと見做されてしまうという事だ。安倍にとって、改憲の中身はどうでも良い事なのであり、「改憲」を争点にして勝ったという実績だけが重要なのだ。

行政権力の行動規範である憲法を政府自らが無視する。これは人権が国権に屈することを意味している。これとの対決を優先しない一切の勢力はマヤカシでしかない。強盗に襲われた時に「まず自分の身を守ることを優先しよう」と呼びかけない者は、いくら強盗と戦う事の重要性を訴えたとしても空虚でしかないからだ。

メディアによる世論誘導

 日頃、張り合っている「文春」と「新潮」が先週号は何故か小池=希望の党を叩く為の特集を組むことで歩調を合わせた。

f:id:pd4659m:20171015201228j:plain中見出しも週刊新潮が「ポンコツリスト」と言えば、週刊文春は「絶望候補リスト」とこき下ろす編集まで似ている。選挙期間中を考えれば、多少はバランスをとって安倍政権批判のコラムの一つもあるのかと思いきやそんなものはない。折しも週刊誌発売日の前日には報道各社が選挙序盤情勢として「自民優勢、希望失速」を大々的に報じた後であり、ここに文春と新潮が歩調を合わせるというのはあまりにも出来過ぎではないか。ここには、いわゆるアナウンス効果を狙った何か大がかりなメディア戦略、世論誘導の匂いがするのである。

 確かに小池百合子の「選別、排除」は「希f:id:pd4659m:20171015202212j:plain望の党」の性格を、そしてまた、小池氏の本質を暴くに十分ではあった。

 おそらく、ここには小池―前原の誤算(裏返せば安倍の勝算)があったのだろう。もう少し時間がある(年末解散)というような読みがあったのかもしれない。小池はすでに2月の時点で新党「希望の党」を商標申請していることからも年内解散は読み込んでいたに違いない。ただ、さすがに冒頭解散までは読めなかったのかもしれない。

前原は党内手続きに、小池は民進党の議員を受け入れ懐柔する筈が強引な手続きを踏まざるを得ないところに追い込まれてしまったと言っていいだろう。

 この序章には山口敬之の「昏睡レイプ事件」―民進党・野田幹事長の辞任=蓮舫体制の崩壊、「山尾志桜里スキャンダル」など、偶然と偶然ではない「何か」が複雑に絡み合い、あるいはそれを利用して流れが出来上がったようにみえる。

若者が一人残らず投票し、「安倍政権ノー」を突きつければ世論調査の予測を覆せる!

 

選挙が序盤戦に突入したばかりの4日、マスコミは一斉に「自民300を超す勢い、希望失速」を流した。

 f:id:pd4659m:20171016005522j:plainf:id:pd4659m:20171016012007j:plain

 

 上のデータは左が今回の序盤戦予測、右が2014年の衆院選序盤戦予測である。何と似ている事か。ここに新聞各社の調査の落とし穴がある。

 

  通常、緊急世論調査と言われる調査では、多くの場合RDD(Random Digit Dialing)方式が採られている。これはコンピュータによってランダムに作り出した固定電話の番号に電話をかけて行うアンケートだ。当然、使われていない番号は飛ばし、回答してくれる人に繋がるまでこの作業を繰り返す。全体あるいは年代別で所定のサンプル数になるまで続ける。

これは、固定電話のf:id:pd4659m:20171016215806g:plain

加入世帯が多かった時代には、こうした方法で集めたサンプルによってかなり正確に全体の傾向を推計できた。ところが、下のグラフから明らかなように20代~30代の世帯では固定電話の加入率が35%ほどになってしまっている。
サンプルの採り方にもよるだろうが、例えば20代の場合は、この年代の7.5%の、30代なら37%弱の傾向を表わすにすぎない。

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 固定電話にもIP電話が加わり、携帯電話・スマートホン等の普及と相まって、使用目的や性格も変わってきている。固定電話そのものが、社会生活上のコミュニケーション・ツールという普遍性を失いつつあるという事である。

 報道各社の選挙情勢にかかわる電話世論調査は、少なくとも若年層の意識動向を正確に反映していない。この調査があたかも正確な選挙情勢を反映しているかのような結果に終わるのは、若者の投票率の低さに助けられているからだ。
初めから世論調査の対象にもされていない若者が、大挙して安倍政権にノーの投票を叩きつけることこそ、マスコミの欺瞞、世論誘導を突き破る道だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

山尾夫妻と「さくらフィナンシャルニュース」の抗争

山尾志桜里氏の「不倫騒動」が週刊文春で報じられ、新体制早々の民進党は大混乱に叩き込まれている。勿論、山尾氏の問題がなくても前原執行部がどれだけ民進党をまとめられるのかは極めて疑問符ではある。

 小生は民進党の支持者ではないし、むしろ一旦空中分解してもっと自民党との距離を鮮明にして野党の再編を図ったほうが有権者にとってわかり易いとかねがね思っていたところである。

とは言うものの少なくとも反自民党勢力に楔を打ち込み、その力を裂こうとするあらゆる動きには警鐘を鳴らす必要があると考えている。その一つが、今回の山尾「不倫」問題である。

 正直、事の真偽はわからないが、そもそも政治活動と切り分けて扱われるべきプライベートな問題を当人たちの告白もないのに「不倫」と決めてかかり、その政治生命をも奪いかねない報道には必ず裏があると考えて間違いない。

加計学園獣医学部設置を巡っては、前文科省事務次官・前川喜平さんが「出会い系バー」に通っていたとしてネガティブキャンペーンが張られた。前川氏の人格を傷付けようとした背後に内閣調査室の策謀があったことは菅官房長官の言動からも容易に察しが付く。

 週刊文春をはじめとするイエローメディアはこうした報道の先兵となって、政治をスキャンダラスなものに映し出し、有権者の政治不信を煽るのである。小選挙区制の下ではそれが政権政党に有利であることは明らかなのだ。

そうした目で見ると、今回の山尾志桜理氏の報道は何かしっくりしないのである。

山尾志桜理氏の夫である山尾恭生氏が「不倫相手」とされた弁護士を告訴しているとか、いや山尾志桜理が不倫をしたのは山尾恭生氏が刑事訴追を受けているからだとか、何が真実なのか一向にわからない。これには何か裏があると感じて少し調べてみた。

周到に仕組まれた「ブーメラン」か 

その結果が「さくらフィナンシャルニュース」と山尾夫妻を巡る「騒動」である。

「さくらフィナンシャルニュース」(代表取締役 上村聡)はこのサイトを見る限り、かなり山尾恭生氏とその妻である志桜理氏に敵意を持っている事がうかがえる。

 保守的なメディアやネット右翼は、山尾志桜理氏が安倍政権を切れ味よく追及していたことに対し、それが「ブーメラン」となって自分に返ってきているのだと言って批判している。

 しかし、その「ブーメラン」宣言が半年以上も前にこの「さくらフィナンシャルニュース」に書かれていたこと、さらに週刊文春が報じるより早く、今回の「不倫」報道をサイトに掲載していた事を見るにつけ、これは用意周到に仕組まれたものではないかという疑念を強くしたのである。

株式会社さくらフィナンシャルニュースで「騒動」勃発。渦中にある山尾恭生氏は民進党山尾志桜理衆院議員の夫か? | ひろしま代書屋日記                                      http://ujina.com/2016/06/29/4698

  1. 現在情報を発信しているサイトは、上村聡氏を編集長とする「さくらフィナンシャルニュース」である。
  2. この「さくらフィナンシャルニュース」(代表取締役 上村聡)は、山尾恭生氏が運営する株式会社セレージャテクノロジーからサイトおよびシステムを含む業務の譲渡を受け、サイトの運営およびシステムの委託管理を行っていた。
  3. 当初、このサイトの編集長は中山裕氏だったが、「扇情的で記事本文との関連性に乏しい、大塚和成弁護士を誹謗中傷する表現」が多用された事で問題となり、一旦休止し編集体制の検証を行ったとされている。新しく編集長になった横田由美子氏名義で2016年6月16日にその事が告知されている。
  4. こうした流れを受け、業務委託をしていた山尾恭生氏(セレージャテクノロジー)は

上村氏との間で行われた業務譲渡、委託契約を一方的に打ち切り、新たに編集長になった横田由美子氏との契約に切り替えようとした。

 発端として、現「さくらフィナンシャルニュース」(上村聡代表)と山尾恭生氏との対立関係はこのようにして始まっている。

(なお、横田由美子氏を編集長とする「さくらフィナンシャルニュース」は2016年6月16日で休載を発表して以来再開していない)。

  そして、それ以後の上村聡氏を代表(編集長)とする「さくらフィナンシャルニュース」のほとんどの記事は山尾恭生氏と山尾志桜里氏への批判=攻撃で埋められている。

【速報】「ガソリーヌ夫」こと山尾恭生・株式会社セレージャテクノロジー代表取締役、株式会社アメーシア取締役会が第三者委員会の設置を決議 (2017.7.11)http://sakurafinancialnews.jp/?p=1665

その中には、「同社の監査役は、ジャーナリストの山口敬之氏からの性被害を告発している女性の代理人弁護士・西廣陽子弁護士の所属する松尾千代田法律事務所の代表で、山尾恭生氏の武蔵中学高校の同級生で衆議院東京2区の民進党からの公認候補予定者となっている松尾明弘弁護士」などと言った山尾恭生氏に近い人たちの関与さえ思わせるような記事も見られる。

山尾志桜里の夫、山尾恭生が刑事告発されてひっそりと炎上していたが…                                 https://sarattosokuhou.com/news/yamao-yasuo/

そして、2017年1月2日付<【特報】山尾志桜里衆議院議員、年末12月27日に元秘書・岡部篤史氏に責任を全て押し付ける会見を名古屋で開く横暴 >の中では次のような不気味な挑戦とも取れる宣言が記述されている。

「夫婦揃って、国民に対しての不誠実な態度は、必ずブーメランのように自分たちに返ってくることを、ここに宣言しておきたい」

http://sakurafinancialnews.jp/?p=965

第3次安倍内閣再々改造閣僚名簿

役職 氏名   日本会議国会議員 神道政治連盟国会議員 創生「日本」
           
首相 安倍 晋三   特別顧問 会長 会長
副総理・財務相 麻生 太郎 特別顧問 名誉顧問  
総務相 野田 聖子    
法相 上川 陽子      
外相 河野 太郎      
文科相 林 芳正      
厚労相 加藤 勝信   事務局長
農水相 斉藤 健
経産相 世耕 弘成 副会長
国交相 石井 啓一 留・公明      
環境相 中川 雅治
防衛相 小野寺五典  
官房長官 菅 義偉 副会長 副会長
復興相 吉野 正芳    
国公委員長 小此木八郎  
沖縄・北方相 江崎 鉄磨 (「みんなで靖国参拝国会議員の会」のみ、統一教会との関係?)
経済再生相 茂木 敏充    
一億総活躍相 松山 政司 幹事  
地方創生相 梶山 弘志 副幹事長
五輪相 鈴木 俊一    

           日本会議は2016年の資料による。

 

行政を私物化する安倍政権を倒そう

 安倍首相の友人が理事長を務める学校法人加計学園が、国家戦略特区で獣医学部を新設する計画について「総理のご意向」を示唆する文書が暴露され、さらにこの疑惑を巡り、文科省の前事務次官・前川喜平氏がこの文書が間違いなく文科省で作られたものであると証言したことによって安倍政権はパニックに陥っている。
 菅官房長官は、なおも「出所の知れない文書」だと言い張る一方で、急遽自民党広報誌=読売新聞にリークし報道させた前川氏のスキャンダル「出会い系バーに出入り」を引き合いに出してみたり、『行政が歪められている』という氏の批判に対しては「なぜ辞める前に言わなかったのか」などと反論とも言えない恨み節を言うなど動揺を隠そうともしなかった。

 ところで、これまでの政治腐敗・汚職と言えば決まって政治家が民間業者への便宜を図り、或いは業者に有利な立法措置を依頼され、見返りに賄賂を受け取るというような図式ができていた。いわゆる「政治とカネ」は政治家個人にとっても、また政権にとっても命取りになるほど、ある意味で有権者(国民)にとって判りやすい綻びとしてあったのだ。

  安倍政権の特異性はカネよりも価値観だということ

 ところが、安倍政権では様相がまったく変わっている。森友学園問題でもそうであるが、政権=安倍晋三の側が特定の個人、法人に対して特段の便宜、利益供与を行ってはいるが(将来的にどうなのかは知る由もないが)差し当たってはその「見返り」のようなものは求めていないことである。

 ここが、政治家の属性は「利権=カネ」と信じてきた凡人にはなかなか本質が見えにくくなっている所以でもあろう。そして、安倍政権の本質はここにあると言ってもよい。

すなわち、安倍政権はすでに従来の(良くいえば国民政党としての)自民党政権ではないということ、日本会議という極右のイデオロギー集団が支配する内閣だということである。
 分かりやすく言えば、中国共産党が支配する中国、金正恩率いる朝鮮労働党が支配する北朝鮮、そしてこちらは日本会議という極右組織が支配する日本。

 ここから見て取れるのは、彼らにとって重要なのはもちろん利権やカネもあるだろうが、それ以上に「価値観」やイデオロギー、あるいは「力の誇示」だということである。これは多分、独裁政権独裁政権を一概にすべて悪だと言うつもりはないし、問題は政治の内容である)の特徴だという事ができると思う。
 団塊世代全共闘運動に関わったことのある老人ならイデオロギーを何にも代え難い「価値観」と信じて疑わなかった時期もあったであろうが、それ以降の世代にはむしろ煩わしいものと感じてきたのかも知れない。しかし、その間隙を縫って左翼勢力や労働運動の衰退に乗じて組織を形成し、地方行政から国家の中枢にまで影響力を拡大してきたのが日本会議であり、今日の安倍政権は日本会議政権なのだ。

  いまや危機の根源は「政治とカネ」ではない

 ここで言いたいのは、いつまでも「政治とカネ」で政治の良し悪しを考えていたら何も見えなくなるということだ。「どういう政治をやろうとしているのか」「政府がどのような価値観をもっているのか」という政治の本質にかかわる問題、思想そのもので判断することが求められているということである。

 さて、では安倍晋三の友人が経営する加計学園獣医学部設置を政府が推し進めたとしても、見返りを求めている訳ではないのなら何ら違法とはいえないし問題はないのではないか。

 それは森友学園問題でも同様で、忖度(そんたく)があったにせよ、それが直ちに違法とは言えないのは事実である。
政府が開き直っているのも、また野党が決定打を出せないのもその論拠を打ち破れないためだ。

内閣総理大臣は、内閣を代表して行政各部を指揮監督するが(憲法第72条)、それは「閣議にかけて決定した方針」に基づいて行われなければならない(内閣法6条)。よって、指揮監督をするには事前に閣議で方針を決定する必要がある。

国家戦略特区は閣議で決定されているから、それを根拠に関係省庁に作業を急がせることそのものは違法ではない。

  ではなぜ「政治によって行政が歪められる」のか

国家公務員法第98条1)  職員は、その職務を遂行するについて、法令に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。

地方公務員法においては、「“重大かつ明白な瑕疵”がある場合を除いて」という救済的な判例もあるのだが、国家公務員法の場合は、そもそも ”重大かつ明白な瑕疵” があるとすれば、それは憲法違反しかないのであるから、その憲法解釈を内閣府が歪めてくる以上は問答無用と言うことにしかならない。

 同じ国家公務員といいながら、特別職である国務大臣等には一般職に適用される国家公務員法の規定は適用されない。したがって、いかに理不尽な命令であっても国務大臣内閣府の命令に異を唱えるのはそれ自身進退をかけなければならないのだ。

 こうした、いかにも非民主的な公務員制度ではあるが、ある意味では今日まで政治家の質の低さを補完し、行政の継続性を保ってこれたのはそれに依拠してきたからとも言えなくはない。そして、それは少なくとも政府が憲法を踏み外してまで行政を私物化することはあり得ないという信頼に支えられてきたからだった。

憲法第15条
 2. すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない

これは一般職、特別職を問わず公務員全般を規定した規範である。(敢えて言えば憲法では選挙で選ばれる公務員と、官吏を分けており、憲法の基本原理として主権者である国民に公務員の任免・罷免の権利が有ることを確認している)

そして、この15条を前提とし、基本精神として

憲法第73条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ
 4. 法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること

 とある。

  すべての前提は、政府に憲法を尊重する姿勢があっての話である。だが、今日の安倍政権は憲法の枠をぶち破ることを確信犯的に追求している政権なのだ。そして、内閣府に逆らえない状況を作ったのは、まさに第二次安倍政権が内閣人事局を設置して官僚の人事権を強化した結果に他ならない。 

日本国憲法第99条】 天皇又は摂政及び国務大臣国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

すべての一般職公務員は、公平公正な職務のために、憲法と行政のあり方を損ねるような政府の命令に対しては勇気を持って拒否してほしい。
「政治によって行政が歪められる」という状態を容認すれば、やがてすべての行政が規範を失い国家を牛耳る一部政治家によって独裁体制が作られてしまうのだ。このことをすべての人々が真剣に考えなければならない。

 悍ましいばかりの陰謀組織=内閣調査室

 前川喜平前事務次官の告白によって、昨年末から今年1月の加計学園獣医学部設置をめぐって文科省で何が起きていたのかが見えてきた。

 ① 政府の国家戦略特区諮問会議は2016年11月、「広域的に獣医師系養成大学等の存在しない地域に限り獣医学部の新設を可能とする」として、当時学部新設を希望していた京都産業大京都市)を排除し、事実上加計学園一校に条件を絞った上で文科省に提示した。しかし、当時前川氏が事務次官を担っていた文科省は学部新設のための4条件を満たす合理的な理由がないとして難色を示した。

 これに対して、「総理のご意向」「官邸トップレベル」の意思と恫喝し、それでもラチがあかないと見るや前川氏を官邸に呼びつけて最後通牒を突きつけた。

② 今年1月4日、内閣府文科省獣医学部新設を「1校に限り」特例で認める告示を共同で出し、事業者公募を開始する。

 ところが、前川氏が示した原案では「1校に限る」という文言は入っていなかった―つまり文科省との合意が未形成のまま内閣府の主導による見切り発車で公募を開始したということだろう。

 文科省内には内閣府と安倍政権への不信感が渦巻いていたに違いない。早期開校を不安に感じた安倍は内調を使って「文科省の違法な天下り」をマスコミにリークした。

 内調は恒常的に政敵や政府に批判的な個人、また政治家や官僚(退職者を含む)の動向・素行を公安警察を含むあらゆる調査網を使って把握しており、内調トップの北村氏は戦前の特高を賛美しており、共謀罪の推進者そのものである。

 政権中枢が必要なときに相手を貶めるための情報をマスコミにリークし世論や野党を誘導する謀略機関なのだ。

  蓮舫問題も仕掛けた? 安倍が重用する“官邸のアイヒマン”北村滋内閣情報官は特高警察を称賛する危険思想の持ち主|LITERA/リテラ

 異例の早さで前川事務次官更迭を決定、その裏に何が? 

朝日新聞デジタル】は1月18日、組織ぐるみの天下り斡旋問題について『文部科学省前高等教育局長の大学への再就職が、出身府省の職員による「天下り」のあっせんを禁じた国家公務員法に違反する疑いがあるとして、内閣府再就職等監視委員会が同省幹部から事情を聴いていることがわかった。

毎日新聞 1月19日】 文部科学省が幹部の再就職を組織的にあっせんした疑いが浮上した問題で、文科省の前川喜平事務次官(62)が責任を取って辞任する意向を固めたことが関係者への取材で分かった。問題を調査している政府の再就職等監視委員会は19日中にも調査結果をまとめ、関与した文科省の幹部職員らの処分を求める方針。官僚の天下りを巡る一連の問題は、事務方トップの事務次官辞任に発展する見通しになった。

   改めてこの記事を読むと再就職あっせん疑惑を調査しているという報道から前川喜平事務次官が更迭されるまで、わずか1日と言う異例の早さに驚く。まだ、予算委員会にも全容が報告されず、ようやく各党が追及を開始したばかりなのに、既に処分が決まっており、さらに幹部職員への追加処分をすると発表したのである。

(菅官房長官の「なぜ在職中に言わなかったのか」なる発言こそは盗人猛々しいと言わねばならない)

 再就職等監視委員会はいうまでもなく内閣府にある。そして、天下りが問題になりそうな省庁は文科省だけではない。いや経産省厚労省に比べれは文科省はむしろ天下り先が少ない方だということは周知の事実である。内閣府と内調はそれらをすべて掌握した上で、文科省への処分を見せしめに、「官邸に逆らったらどうなるかわかっているだろうな!」と恫喝したのだ。

 それだけではなく、野党を駆り立て省の歴代責任者を国会に招致し雁首を並べて謝罪させたのだ。こうしておいて、いまさら「総理のご意向」なる文書はあるか? と聞いて「あります」と答える官僚がいるだろうか。

 拷問の果てに「私がやりました」と答えさせるあの手法と同じではないか。

 こんなおぞましい政権は一刻も早く打ち倒さなければならない。

 

 

 

レーニン『なにをなすべきか?』学習ノート(最終回)

 

【専門化・分散化、集中化と分業論に関する考察】

一般に「なにをなすべきか」の学習レポートや解説で、この「集中化、専門化」ということの意味についてあまり深く検討されているものは少ない。しかし、この節の表題を「組織活動の規模」とし、それを実現する方法は分散と専門化―集中化であると提起していることは興味深い。

レーニンは、1890年―1900年当時、一方で組織建設の計画に着手しつつ、他方で急速に発展を遂げるロシア資本主義についての詳細な分析をおこない、マルクスの『資本論』をも引用しながら経済学としての理論的検証もおこなっている。「いわゆる市場問題について」(1893年)や、1896年~99年までの3年をかけてまとめた労作「ロシアにおける資本主義の発展」などの著作がそれである。

その中で、資本主義の飛躍的発展と工業化が生産工程の細分化=工場内分業、大規模生産とその結果が不可避につくりだす市場との関係=社会的分業についても全面的な解明と研究を行っている。

「手労働の機械労働による交替には、なんの『不合理さ』もない。反対に、ここにこそ、人間の技術のあらゆる進歩的な働きがある。技術がより高度に発展すればするほど、人間の手労働は、ますます駆逐されて、よりいっそう複雑な機械によって取ってかわられる。……全発展は一様に分業によっておこなわれるのである。そして、これらの契機のあいだに、『本質的』な差異はない。それらのあいだに現実に存在する相違は、技術の進歩の種々の段階の差異に帰結する。資本主義的技術のより低い発展諸段階―単純協業とマニュファクチェア―はまだ生産手段のための生産手段生産を知らない.それは、高度の段階―機械制大工業―のもとでのみ発生し巨大な発展をとげる」

……「そして市場の大きさは、社会的分業の専門化の程度と、不可分にむすびついている」

「……(分業と私的所有は)交換の出現とともにはじめて発生する。その基礎には、すでに発展しつつある社会的労働の専門化と市場における生産物の譲渡とがある。たとえばアメリカ・インディアンの原始共同体の全成員が、彼らに必要なあらゆる生産物を共同でつくっていたあいだは、私的所有もまたありえなかった。ところが、共同体のなかに分業が侵入し、その成員が各個になんらかの一生産物の生産に従事するようになり、そして、その生産物を市場で売るようになったとき、そのとき商品生産者のこの物質的孤立性の表現が、私的所有の制度だったのである。」(レーニン全集第一巻「いわゆる市場問題によせて」)

 マルクスは、分業はやがて人間労働を駆逐し、人間を疎外するものであり、共産主義社会においては分業が廃絶されなければならないとしている。レーニンは、それをふまえながら、あえて分散・専門化と集中化というかたちで、組織建設に分業の手法を提起している。これは、資本主義が用意した、その条件の中からしか、あたらしい社会を生み出すことはできないという弁証法的かつ実践的な提起としてレーニン主義を学ぶ場合には興味ぶかいものがある。

 資本主義は社会主義への遺産として、かならず、一方では、古い、数世紀にわたってつくられた、職業上の、または手職のうえの分業を労働者のあいだにのこし、他方では労働組合をのこす。…やがては、これらの産業別組合を通じて、人々のあいだの分業を廃止し、あらゆる方面に発達し、あらゆる方面で訓練された人々、あらゆることができる人々の教育、訓練、養成にうつってゆくことができるし、またそうなるだろう。…だが、それも長い年月をへてはじめてそうなるのだ。…完全に成長し、成熟した共産主義のこの未来の結果を実際に予測しようとこころみることは、四才の子供に高等数学をおしえようとするのと同じである。  われわれは、空想的な人的資材や、とくにわれわれがつくりだした人的資材をつかって社会主義をつくりだすのではなくて、資本主義がわれわれに遺産としてのこしたものから社会主義をつくりはじめることができる(また、そうしなければならぬ)。…だが、この任務を別な方法ではたそうとすることは、すべて不まじめなものであり、とくにとりあげる値うちはない。(『共産主義における「左翼」小児病』第6章)

(なお、共産主義社会における分業の廃絶をめぐっては、理論的にも未解明な部分があり、それ自身としての研究が必要な分野ではある)

5)「陰謀」組織と「民主主義」

 レーニンが手工業性に反対し革命家の組織をつくることからはじめるべき、いっさいの秘密の機能をできるだけ小数の職業的革命家の手に集中することで継承性をもった革命運動をすすめうる、と主張したのに対し、手工業主義者は「人民の意志主義だ」「陰謀的だ」「反民主主義的だ」と非難した。  レーニンは「ツァーリズムに対して断固たる戦争を布告する戦闘的な中央集権的組織を考えたりすると、何でも『人民の意志主義』だと呼ばれる」とし、こうした批判が敵を利する反動的なものであることを指弾したうえで「人民の意志」派の誤謬は「専制政府との断固たる闘争」をめざしたことではなく「全然革命的理論でない理論」をよりどころとし、自らの運動を「発展しつつある資本主義の内部における階級闘争」と結びつけられなかったことにあると述べている。

 また「陰謀的」だという非難に対しても、政治闘争を陰謀にせばめることは反対してきたが、組織形態についていうなら「専制国のばあいにはこのような強固な革命組織は『陰謀的組織』とも呼べるが、それでどうだというのか」「民主主義の原則に反する」などという非難は、専制が支配するロシアにおいては「空虚で有害な遊びごと」に過ぎないと一蹴した。

 なぜなら、中央集権的な組織、機密活動の訓練をつんだ革命家の組織の必要性は、少しまじめに専制との闘いを考えるなら、必然であったからである。そして、形式上だけの「民主主義」のおしゃべりをするくらいなら、党員間の同志的信頼が保障されている組織をどう作るのかを真剣に考えることの方が、党にとって大切なのだと言っているのである。

 「われわれの運動の活動家にとっての唯一の真剣な組織原則は、つぎのものでなくてはならない。すなわち――もっとも厳格な成員の選択、職業革命家の訓練。これらの特質がそなわっているなら、『民主主義』以上のあるものが、すなわち革命家たちのあいだの完全な同志的信頼が、保障されるのである」(p208)。            

 そして、レーニンは「革命家たちのあいだの完全な同志的信頼」こそ、「われらにとって絶対に必要なものなのだ」と述べている。綱領と規約にもとづく意思の一致、そして実践的活動を通じての「同志的信頼」関係こそ必要であり、形式的な「民主主義」のおしゃべりにレーニンは大きな意義をおかなかったのである。

→「民主主義以上のあるもの」を保障する前提は、同士的信頼関係である。それがあってはじめて「不適当な成員を取り除く」ためのあらゆる手段が許されるということであり、その逆ではない。もし、同志的結束を図るという口実のもとにあらゆる手段を用いて「不適当な成員」を取り除いたのなら、それは粛清でしかない。

 いわゆる「民主主義的」手続きの制限された組織においては、一にも二にも同志的信頼が築かれない中での組織問題の正しい解決はありえないということである。

→レーニンを批判する人はこの「中央集権制」が、ロシア専制下の特殊なものであったとしても、それがスターリン主義的な一党独裁の根拠をなしてきたかのように主張する。たしかに、非合法下と合法下では、党組織のあり方は異なってくるし、日本のような合法下の党の「民主的あり方」は、当然違ってくるだろう。形式上は日本では、レーニンが指摘するドイツのように「完全な公開性と選挙制と全般的統制」が実現されるならば、「自然陶汰」によってより民主的な党の運営が保障されるはずである。

 しかし、法律上、合法化されているからといって、階級対立が解消されているという事を意味するわけではない。革命党の存在がますます資本主義的支配を脅かすようになれば、権力がいつでも時期を得て容易に一網打尽にすることを狙っており、「合法」であるがゆえに日常的な組織実態把握、情報収集(もろもろの口実をもうけた、これまた「合法的」に行う捜索をも含めた)を周到に進めているのである。

つまり、革命党は本質的に非合法であるということ、たとえ合法化されていても、権力に与える情報を極力少なくするよう努めることは義務でなければならない。

6)地方的活動と全国的活動

 手工業性に対する批判の最後として、レーニンは全国的な党の活動を地方的な活動に優先させるべきこと、地方的な分散主義に陥ってはならないことを中央機関紙と地方新聞を例に出して説明している。

 1898年から1900年にかけての約2年半のあいだにロシアでは30号の地方新聞が発行されていた。

 「もしこれと同じ号数の新聞が、ばらばらの地方的諸グループによってではなしに、単一の組織によって発行されたとしたら、われわれは、莫大な労力を節約できたばかりか、さらにわれわれの活動にはかりしれないほど多くの確固さと継承性とを確保できたであろう」

【全国的政治新聞の必要性】

 「…いくらか大きな労働者の密集地には…自分自身の労働者新聞が必要である」この「経済主義者」=手工業主義者の主張に対し、レーニンは次のように反論する。

「その土地土地での工場内の状態の暴露のためには、われわれにはつねにリーフレット《=チラシ》があったし、これからもなければならない…」

「しかし、新聞の型をわれわれは高めなければならないのであって、それを工場リーフレットに低めてはならない

「われわれが必要としているのは、『こまごまとした事柄』の暴露よりも工場生活の大きな、典型的《根本的、本質的》な欠陥の暴露であり、とくに際立った実例にもとづいて……すべての労働者とすべての運動指導者との興味をよびおこす」ものでなければならない。そして全国的政治新聞の必要性について次の点をあげている。

① 真に継承性《=権力の弾圧から防衛された》のある全国的政治新聞の発行

② 労働者の知識をゆたかにし、視野を広め目覚めさせる新聞は、地方組織の単位では不可能である。

③ 手工業的な新聞でまにあっているということ自体が組織と運動の規模の小ささを示すものであり「工場生活の細々した事柄」の中におぼれきっていることである。

 

「運動が全面的暴露と全面的煽動の任務をすでに完全に制御し、その結果中央機関紙のほかにたくさんの地方機関紙が必要になる」のであれば、これは「贅沢のしるし」になるが、今はそうではない。

 「地方組織の大多数が、主として全国的機関紙のことを考え、主としてその仕事をやらなければならない。(そうならなければ、紙上での全面的な扇動が)いくらかでも真に運動に役立つことのできる新聞を、ただの一つも発行することはできないであろう。だが、そうなったときには、必要な中央機関紙と必要な地方新聞とのあいだの正常な関係《=役割分担》はひとりでにうちたてられる」

 【全国的政治新聞の性格とそのための組織条件】

 では、全国的政治新聞のはどのようなものでなければならないのか。ここでは市政や市議会に対する暴露ということを例に二つのポイントを挙げている。

①「市政の問題の解明《=あらゆる政治問題の解明と言ってもよいだろう》がわれわれの全活動の適切な見とおしにもとづいておこなわれるためには、まず最初に、この見とおしを完全につくりあげ、それを議論によるだけではなく、たくさんの実例によってしっかりと確立すること……が必要である」(→認識の方法と対応する)

② 「市政の問題をほんとうにうまく、興味ぶかく書くためには、これらの問題を十分に(知識として、あるいは本などによってではなく)知っていることが必要である。……新聞に市政や国政の問題について書くためには、練達した人の手で集められ、まとめられた、新鮮な、多方面にわたる資料をもたなければならない。……そのためには、専門の著作家と専門の通信員からなる幕僚や、いたるところに連絡をつけ、ありとあらゆる『国家機密』に割りこみ、あらゆるものの『舞台裏』にもぐりこむことのできる社会民主主義者の探訪記者の軍隊、『職務上』どこにもいて、なんでも知っていなければならない人々の軍隊が、必要である。そして、あらゆる経済的・政治的・社会的・民族的圧制とたたかう党であるわれわれは、このような、なんでも知っている人々の軍隊を見つけだし、集合させ、訓練し、動員し、進軍させることができるし、またしなければならない」

 →この二つの条件を満たすような組織をつくることを前提として、第5章の全国的政治新聞について展開されるのであり、機関紙問題を第5章だけ切りとって論じたり、組織の団結形成論として語るのは、労働組合の機関誌やサークルの会報の意義を語るのとそう変わらない。

 

【五】全国的政治新聞の「計画」

 この章でレーニンは、全国的政治新聞の計画について述べている。この計画は論文「なにから始めるべきか」によって、すでに提出されていたものであり、前提的にそこで述べられていたことをまとめておきたい。

 まず、レーニンは「現在の瞬間におけるわれわれのスローガンが、『突撃せよ』ではありえず、『敵の要塞の正規の攻囲を組織せよ』であるべきだ」と言って、「経済主義者」(『ラボ-チェエ・デーロ』)が1901年秋おこなった、「『専制の砦』にたいする即刻の突撃」という呼びかけを拒否する姿勢を明確にしている。

 「わが党の直接の任務は……すべての勢力を統合して、名目のうえだけでなく実際に運動を指導する能力のある革命的組識、すなわち、つねにあらゆる抗議やあらゆる燃えあがりを支持する用意があり、それらを利用して決戦に役だつ兵力を増大させ、つよめる能力のある革命的組織をつくりあげる」こと。(二月と三月の諸事件の後ではこういう結論にたいする原則上の反論に出会うことは、少なくなったが)「現在われわれに必要なことは、問題の原則上の解決ではなくて実践上の解決である」。すなわち、a)どういう組織が、b)どういう活動のために必要であるかを、知ることだけでなく、c)すべての方面から組織の建設に着手できるような「組織計画をつくりあげること」、その活動の出発点であり、組織建設の第一歩であるとともに、これを発展・拡大するための導きの糸こそが全国的政治新聞でなければならない、と提起している。

【二月と三月の諸事件】ペテルブルグ、モスクワ、キエフ、ハリコフ、ヤロスラヴリ、トムスクワルシャワ、ペロストクその他のロシアの多くの都市を捲きこんだ1901年2月と3月の学生の戦闘的決起と労働者の行動――集会デモンストレーション、ストライキをさしている。3月4日にはペテルブルグのカザン広場で、兵籍編入に抗議する数千の学生と労働者が参加したデモが行われた。これに対してツァーリ警察とカザックが弾圧をくわえ、デモ参加者は残酷に打ちすえられ、数名が殺され、多くのものが不具にされた。この事件は「イスクラ」第3号(1901年4月)にくわしく報道された。『ラボーチェエ・デーロ』の「突撃の呼びかけ」というのはこの年の秋に出されたものである。

 さらに、「新聞は、集団的宣伝者および集団的扇動者であるだけでなく、また集団的組織者でもある。この最後の点では、新聞は建築中の建物のまわりに組まれる足場にたとえることができる」とも提起している。

 これは先に引用したa)~c)とも対応したものであり、この章で展開される内容は「全国的政治新聞」をとおした組織建設論そのものである。その要点は次のようにまとめることもできるだろう。

a) 「集団的宣伝者、集団的扇動者」として、あらゆる事象についての共通の認識、評価、判断能力を獲得する=理論的同質性を養うこと

b)「集団的組織者」として全国に散在している社会民主主義的な諸委員会、諸サークルの実際的な結びつきをつくり出すこと

c)革命党にとって不可欠な、あらゆる情勢の変化に対応できる「柔軟性」とそのための戦闘組織をあらかじめ準備すること

 また、a)およびb)は第2節、c)は第3節で展開されているが、多くの部分が「なにから始めるべきか」で述べられた内容をさらに詳しく述べたものである。

 

1)だれが論文「なにから始めるべきか?」に感情を害したか? 

(略)この節は、論集「12年」の中に再録された際には筆者の手ではぶかれ、脚注ではその理由について「…この節は『ラボーチェエ・デーロ』とブンド相手におこなった論戦を含んでいるだけだから」だと説明している。

 

2)  新聞は集団的組織者になることができるか

a) 単一の組織の同質性を形成すること

 論文「なにからはじめるべきか?」の要点は、「新聞は集団的組織者になることができるか」という質問を提起して、それに、できる、という解答をあたえたことにある。『イスクラ』は、「新聞を中心として、そのための仕事を通じて人があつまり、組織をつくるであろう」と考えている。

 ところが、これに対してテロリストのエリ・ナデジヂンは「いまどき、全国的新聞から糸を引く組織のことなどを論じるのは、書斎思想と書斎仕事を生むものである」(『革命の前夜』)と言って批判している。この筆者は「もっと具体的な仕事を中心としてあつまり、組織をつくるほうが、はるかに手っとりばやい」と考えている。

 それは、この「計画」のもっとも肝要な言明を見ようとしていないからだ、と批判し、「なにからはじめるべきか」で述べたこと《冒頭の引用》を再度繰り返している。

 強力な政治的組織をそだてあげるという「原則上はただしく、争う余地がなく…しかしまったく不十分で、広範な労働者大衆にばまったく理解できない真理」に引き戻されないためにはどうすべきなのか。レーニンは次のように述べている。

 「近年わが国では、知識労働者もまた『ほとんどまったく経済闘争だけ』を行ってきた。……だが、他方では、知識労働者のなかからもインテリゲンチャのなかからも政治闘争の指導者がそだってくるように、われわれが助けないかぎり、大衆もまた決してこの闘争を行うことを学びとりはしないだろう。そして、このような指導者は、ただわが国の政治生活のすべての側面、さまざまな階級がさまざまな動機で行う抗議や闘争のすべての試みを、系統的、日常的に評価することをもととしてのみ、そだてあげることができるのである……人々がこれらすべてのことについて考える習慣を身につけること、動揺や積極的闘争のありとあらゆるひらめきを総括し、一般化する……『生きた政治活動』は専ら生きた政治的扇動からはじめる以外にはなく、(それは)頻繁に規則正しく配布される全国的政治新聞なしには不可能である」(p238~239)

 このあとに、全国的政治新聞の重要な役割を「導きの糸」(*) を例に述べている

 * 導きの糸:建築技法において「導きの糸」に該当する専門用語は「水糸」と呼ばれている。レンガやブロックを積んだり、一定の高さにセメントを打つ場合に、全体の水平を確保するためには水糸はなくてはならないものである。

 「つねにあらゆる抗議やあらゆる燃えあがりを支持する用意のある革命的組織をたゆむことなく発展させ、ふかめ、拡大することができるような、そういう導きの糸」となるものが、全国的政治新聞だとして次のように解説している。

 「石工たちが、まったく前例のない大建築物のための石材をいろいろの場所に積むときに、一本の糸を引いて石を積む正しい場所を見いだすたよりにし、それによって共同作業の最終の目標を示し、こうして石工たちが、一つひとつの石材ばかりか、一つひとつの石片までも使って、まえに積まれた石とあとから積まれる石とにつなぎ合わせ、その全部が合わさって仕上がりの線をつくりあげてゆくことができるようにする」のは『紙上の』《新聞の》仕事ではないのか。そして「われわれには石もあり石工もいるが、まさに全員に見え、全員がつかむことのできる糸が欠けている」(p239)と指摘している。

 →石工とは職業革命家、あるいは指導者であり、前例のない大建築物とはツァー専制の打倒、あるいはプロレタリア革命、石材とは地方にばらばらに存在する組織、そして石を積む作業は政治的宣伝・扇動とそこでつくられる運動と考えてよいだろう。

 つまり、単一の全国組織が革命という前例のない事業を達成するために、全国の地方組織、サークルから一斉に闘いを開始しようとする場合、それぞれの末端組織は、各々違った勢力、特徴、歴史的条件に則して作業に取りかかるわけである。

 それぞれの持ち場を担当するグループは、それぞれの方法、力量を考えて作業を進めるが、最終的には水糸に届くように調整し、全体を一つの構造物として一体化させるのである。そのためには石工は、今現在積まれている石の位置から水糸に達するまでの空間(容積)を埋める、石の大きさや形、数量、その置き方等々を適切に判断する能力が問われるのである。

 レーニンは、それぞれ別々の地方、組織、グループが、国内的・国際的、政治的・経済的な諸問題を大衆に向かって宣伝・扇動する場合、それらの事柄の捉え方、認識、指針の与え方において理論的水準の一致、同質性が必要だということを言っているのである。

 そうした能力を作り出すために宣伝・扇動の手本となって、あらゆる政治的事象に対してどのように評価・反応すべきかを指し示し、全組織の指導者が同質の政治的判断能力=理論的同質性をわがものとするには、規則正しく発行される全国的政治新聞しかないと述べているのだ。

 ところが今日、革命党を自認する党派の中に全国の地方組織・産別組織に対し「一斉に同じ大きさの石を積み上げよ」と指示することが、あたかも組織の統一性を確保することと勘違いするものが現れている。どのような組織でも、論理性を軽視し、あるいは排除し、実践的目標を絶対的規範に高めてしまったときからカルトへの変質が始まるのである。

 

 b) 単一の組織の実際的な結びつきをつくりだすこと

 次にレーニンは、全国的政治新聞が「集団的組織者である」ことの意味を「建築中の建物の足場」にたとえ、次のように解説している。

 「それは建築の輪郭をしるし、各建築工のあいだの連絡を容易にし、彼らが分業を行ない、組織的な労働によってなしとげられた共同の成果を見渡すのを助けるようなものである。」(p241)

 つまり、「集団的組織者」とは単一の全国的組織の実態的結合を形成していく役割である。ここでの「集団的」というのは、分散状態にある全国の党派、潮流、グループやサークルを指している。これらの諸集団を単一の革命党へと実態的に結合するための全国的政治新聞ということである。 

 「…地方機関紙によっては、専制に対する総攻撃のため、統一闘争の指導のために、すべての革命的勢力を『集合し、組織する』ことはできないだろう」(p244)

  「人々は細分状態に締め付けられて、広い世界ではどんなことが起こっているのか、だれに学んだらよいのか、どうすれば経験を身につけられるか、広範な活動をやりたいという願望をどうして満足させたらよいのか、分からずにいるからである。このような実際の結びつきをつくりだす仕事は、共同の新聞に基づいてはじめて開始することができる」(p247)

「われわれの運動の欠陥は、思想上の点でも、実践上、組織上の点でも、なによりもその細分性にあり、圧倒的多数の社会民主主義者が純然たる地方約活動にほとんどまったく没頭しきっており、この地方的活動が彼らの視界をも、彼らの活動の規模をも、彼らの秘密活動の熟練と訓練をも、せばめているということにある」(「なにから始めるべきか」)

 ここで、建築物の足場とは、革命家の文書の配布や連絡網などの実際的結合の例として出されているのだということ。したがって、より核心的には受任者網を指しているという理解が成り立つ。レーニンは『なにから始めるべきか』や『一同志にあたえる手紙』の中で、受任者網建設という問題意識を非常に強くうち出している。

  基幹要員=カードル形成と受任者網の建設、これを定期的に発行される全国的政治新聞の規則的配布(その配布網=受任者網)を通して建設する、これこそが全国の革命的組織を糾合し、統一した政治的組織と戦闘組織を同時的に形成することなのだと述べているのである。

3) われわれにはどのような型の組織が必要か

 c)全国的政治新聞による柔軟性の確保

 「柔軟性の確保」ということの意味については、次の3点にまとめることができる。

①「革命を見落とす恐れが最も少ない」(P257)ということ。なぜなら「その綱領も、戦術も、組織活動も、一切のものの重点を全人民的な政治扇動」(p257)においており、停滞の時期にも、また燃え上がりの時期においても、常に大衆の動向を正確に把握するとともに、党の方針を大衆の反応によって検証することができる。

② いかなる時期にあっても「行うことができ、また行うことが必要であるような活動」、つまり「全ロシアにわたって、統一的で、生活のいっさいの側面を解明する、もっとも広範な大衆を対象とした政治的扇動の活動」(p259)が、階級闘争の爆発の時期であっても、逆に完全な沈滞の時期であっても必要不可欠なのだということ。

③ あらゆる事態に対応できるあらかじめの準備をもった組織ということ。これはすでに述べられているように職業革命家を中心にした秘密活動の訓練ということでもあるが、ここでは全国的政治新聞の事業を通して、その配布・連絡・大衆の動向の掌握、さらには蜂起の準備にいたるまでのすべてを秘密裏に準備することができるという意味である。

 

 「われわれの『計画としての戦術』は、今すぐ突撃を呼びかけることを拒否して・・常備軍を集合し、組織し、動員することに全力をそそぐように要求すること」(p253)

なぜなのか?「民衆がわれわれのものになっていない」(p255)からである。

 いや、民衆の闘いは沸騰点に向かっているにもかかわらず、党がこの情勢に対応する体制と準備に立ち遅れているために、職業革命家の組織である常備軍が民衆の先頭に立つことができない。これは、民衆の自然発生性にまかせるということに他ならない。  「民衆の前に、その先頭にたつ」とは「民衆の自然力的な破壊力と革命家の組織の意識的な破壊力とを近づけ、一体に融合させる」(p255)能力をもった組織を建設すること。

 それは「真実の突撃が始まるその瞬間まで遅すぎるということはない」(p254)

(→その直前になってからやっても間に合うと言っているわけではない)

「革命が何よりも第一にわれわれに要求するのは、扇動における熟達と、あらゆる抗議を支持する(社会民主主義的なやり方で支持する)能力、自然発生的運動に方向を与え、それを味方の誤りからも敵の罠からも守る能力であろう!」(p258) 

 こうした能力をもった組織、すなわち大衆の自然発生的な力を計画的、系統的にまとめあげ、配置して決戦に役立つ兵力をも組織できるのは全国的政治新聞の事業以外ないということなのだ。

 では、最後に革命党建設にとって中央委員会の組織化という問題は避けられない課題であるが、それについては全国的政治新聞の役割との関係で、レーニンはどのように捉えていたのであろうか。

「現在のように、完全な分散の支配している時期には、中央委員会を選出するだけでは統合の問題をかいけつできないばかりか、もし、迅速で完全な一斉検挙があらたにやってくるなら・・党の創設という偉大な思想の信用を失墜させる恐れがある。だから、必要なことは、復刊された共同の機関紙に対する支持を、すべての委員会とその他すべての組織に要請することから始めることであり、そういう機関紙は現実にすべての委員会の間に事実上の結びつきを打ちたて、現実に運動全体の指導者グループを訓練してゆくであろう。ところで、もろもろの委員会によってつくりだされたそういうグループを・・中央委員会に変えることは、それらの委員会と党にとって全くたやすいことであろう」(p233)

 この章の最後はレーニンの次の言葉で結ばれている。

 「私はやはり、主張する。そのような事実的結びつきをつくり出す仕事は、ただ共同の新聞にもとづいてのみ開始することができ、共同の新聞は、もっとも多種多様な活動の成果を総括し、そうすることによって人々を駆りたてて、すべての道がローマに通じるといわれるように、みな革命に通じている数多くの道々のすべてにそって倦むことなく前進させる、唯一の規則的な全国的事業だからである」

                                      (了)

 自分なりに学習したものをまとめたもので、不十分な点や理解の誤りもあるかもしれません。御意見や批判は歓迎です

 

レーニン『なにをなすべきか?』学習ノート(第四回)

【四】経済主義者の手工業性と革命家の組織

第四章は、ロシア社会民主労働党の党組織はどうあるべきかについて述べている。

「およそ、どのような団体でも、その組織の性格は、この団体の活動の内容によっておのずから、また不可避的に決まるものである」

経済主義者たちの主張は政治活動の狭さのみならず、組織活動の狭さにも表れる。レーニンは経済主義と組織活動における「手工業性」の不可分の結びつきを明らかにすることによって、全国的に統合された民主集中的な党組織の建設を呼びかけている。

 

冒頭で革命家の組織の性格について二つの規定が与えられている。

①「政治的反対や抗議や憤激のありとあらゆるあらわれを結びつけて、一つの総反攻にする全国的で中央集権的な組織」

②「職業革命家からなりたち、全人民の真の政治的指導者たちに率いられる組織」

前者は政治的な任務との関係を、後者はその組織の内部的な性格、構成を示すものといえる。そして、『ラボーチェエ・デーロ』は「雇い主と政府とにたいする経済闘争」のためには、こうした組織などは全然必要ないと述べている、という形で経済主義者を批判している。

1)手工業性とはなにか?

 レーニンはここで、1890年代ロシアの革命的インテリゲンチャが、労働者と連絡をつけサークルを組織していった時代を描写している。青年達は全く無防備な形で、しかし精力的献身的に労働者大衆の中に入り込み組織化を展開した。彼らは労働者や社会の教養ある人々と一定の結びつきをつくり出し、宣伝や扇動に移り、他のサークルや革命家グループと連絡をとりあい、リーフレットや地方新聞を発行し、デモンストレーションに打って出ようとする。すると、たちまち「根こそぎの一斉検挙」がやってきて組織と指導者を奪われてしまうのである。  こうしたサークル的闘いは「根棒で武装した百姓の群れが近代軍隊に立ち向って出征するのにたとえないわけにはいかない。しかも驚嘆するほかないのは、戦闘員が…まったく訓練を欠いていたにもかかわらず、運動がひろがり、成長し、勝利を獲得していった、その生活力である」(P151)。これは、歴史的には避けられないことで、はじめのうちは正当でさえあるが「近代軍隊をうち倒すには、それなりの強固な革命組織の建設に着手しなくてはならない」。 

2)手工業性と経済主義

「手工業性」は、革命運動の成長につきまとう、早期に克服されるべき「病気」であった。ところが、経済主義者はその克服に反対し、これを理論的にも正当化しようとしたのである。

レーニンが述べている「手工業性」とは以下の4点にまとめることができる。

①訓練の不足

②全体としての革命的活動の範囲が狭隘であること

③そして、こうした狭隘な活動によっては、すぐれた革命家の組織などつくれるはずもないということを理解できないこと

④この狭隘さを正当化して、特別の理論にまつりあげようとしていること――この点でも自然発生性のまえに拝跪している。

→(当時のロシアにおける)危機の根本原因は大衆の自然発生的高揚にたいする指導者の立ちおくれである。しかし経済主義者は大衆運動の高揚をもって、指導者が革命的積極性を発揮する必要性を免除されたかのように勘違いしてしまうのである。彼らには労働者大衆の政治意識を高めることも、全面的政治暴露の意義も何一つ理解できないだけでなく、その必要性すら感じられないのである。

→こうした「手工業性」の克服のためには、計画性と統一性のある、理論的にも政治的にも組織的にも訓練された「確固さと継承性を保障できるような革命家の組織」が必要であり、それは政治警察との闘争を抜きには語ることができない。そのためには訓練された職業革命家の組織がどうしても必要になるのであるが、これに反対し、拒絶し、それを正当化するために特別の「理論」まで作り上げてしまうところに「経済主義」の特徴と結びつきが生まれるのである。

3)労働者の組織と革命家の組織

社会民主党の政治闘争は、経済闘争よりずっと広範で複雑である。したがって、これに対応する社会民主党の組織もまた、経済闘争のための労働者の組織とは別のものである。党は労働者階級の利益を代表はするが、理論においても、活動範囲においても、また組織それ自体においても独自性をもっている

②この、労働組合的組織と政治的組織のちがいは、もともと政治的自由の国においては、自明であり、明瞭なことである。

→「ところが、ロシアでは、一見したところ専制の圧制が社会民主主義的組織と労働者団体のあいだのあらゆる差異を消しさっているかのようである。なぜなら、あらゆる労働者団体、サークルは禁止されて」いたからだ。(P167)

経済闘争そのものが政治的性格をおび、社会民主党内の経済主義者が「政治闘争という概念を『雇い主と政府に対する経済闘争』という概念と一致するものと考え」ていたため、「彼が『革命家の組織』という概念を多かれ少なかれ『労働者の組織』という概念と一致するものと考え」るだろうことは当然であった。このような「意見の相違が明らかになるやいなや、もう総じてどのような原則上の問題についても『経済主義者』と意見の一致」をみることはできなかった。(P165)

 

【労働者の組織と革命家の組織との区別と関連

①経済闘争のための労働者の組織

一般的に言って、労働組合は労働者の直接的な経済的利益を守る階級的組織である。

・職業的組織であること

   ・できるだけ広範なメンバーから構成されていること

   ・できるだけ秘密でないものでなければならない。

②職業革命家の組織、あるいは革命家の組織

・ 第一に、また主として、革命的活動を職業とする人々をふくまなければならない。

「だから私は、社会民主主義的革命家を念頭において、革命家の組織と言っている」…レーニンが革命家の組織、あるいは職業革命家という場合、これは社会民主党の党員一般について言っているのではなく、その中心となり革命のために訓練された人々によって指導される中核組織と理解すべきなのだろう。

 権力の弾圧から組織をまもりつつ、広範な人民を党のもとに結集させるということを考えるならば、高度の秘密性が要求される任務をすべての党員に等しく与えることは不可能であり、危険なことである。これはレーニン党組織論の特異性でもあり、経済主義者が「陰謀組織」といって批判した根拠でもあろう。にもかかわらず、ボリシェヴィキが他方では、広範な労働者大衆と結びつき、多くの労働者党員・革命家を結集していたのは事実である。

 つけ加えれば、本質的に非合法である革命運動において職業的革命家が中心となり党を指導し、階級闘争の先頭にたつべきだということは、今日においても、またどの国においても何ら変わりはない。(「職業革命家」の意味については後に詳しく検討する)

・このような組織の成員に共通な標識(共産主義者マルクス主義者?)をまえにしては、労働者とインテリゲンチャのあいだのあらゆる差異はまったく消え去れねばならず、まして両者の個々の職業の差異については言うまでもない。

・この組織は、必然的に、あまり広範なものであってはならず、またできるだけ秘密なものでなければならない。

③党と労働者組織との関係

・ いろいろな国で、それぞれの歴史的、法律的その他の条件に合わせて変化するが、できるだけ緊密であり、複雑でないもの

労働組合の組織と社会民主党の組織とが一致するというようなことは自由な国では問題にならない

つまり,レーニンは,マルクスの中では漠然とていた「政治運動」を厳密に区分けし,そのことによって労働組合運動と社会主義運動との関係についての最大の難問を正しく提起したのである。

《→それを自由な国において「党と労働組合」の関係を漠然としたものに引き戻し、混同させようというグループさえ現れている、なんということだ!》

・革命的組織は労働者の組織にあらゆる援助をあたえ、社会民主主義的労働者は労働者の組織に協力して、その中で積極的に活動しなければならない。だが、社会民主主義者だけが「職業」組合の一員となることができるような条件を要求することは、決してわれわれの利益にならない。それは大衆にたいするわれわれの影響範囲をせばめることになるからだ。

・労働者の組織が広範であればあるほど、経済闘争のために役立つだけでなく、政治的扇動と革命的組織のために極めて重要な補助者としての役割を果たす。

 

専制下のロシアで労働者の組織をどう作るのか

成員が広範なことが必要なのに、また厳格な秘密活動も必要だというこの矛盾をどうやって調和させたらよいか? 職業組合をできるだけ秘密でないようにするにはどうしたらよいか?」

(前半部分は他の国においても言える普遍的な課題を含んでおり、後半は特殊ロシア的歴史的課題と言うことができる。)

そして、このロシア的特殊性において二つの道をあげているのだ。すなわち、

①職業組合を合法化する道

②秘密活動がほとんどゼロになってしまうぐらい「ルーズな」つかみどころのない組織にしてしまうこと

・職業組合を合法化する道……この決定権はツアーが握っている。そして、非社会主義的、非政治的な労働者団体の合法化はすでに始まっている。また、合法化運動はブルジョア民主主義者、挑発者らが旗を振り、労働者や自由主義インテリゲンチャにも追随者がでており、この分野を社会民主主義者が無視するわけにはいかない。

 では何をするのか。ここで、われわれが行うべきことは、この運動内の「毒麦」と闘い、「小麦」を刈り入れ、またその「刈り入れ人」たちを養成すること。

 「毒麦」とは、労働者をわなにかけるために権力が送り込んだ挑発者や、階級調停的・協調的思想を吹き込む輩を暴露すること。「小麦」とは広範な、政治的意識の低い労働者層の意識を引き上げ、政治問題に注意を向けさせること。それを労働者組織の中でおこない、労働者革命家を養成することである。

 「今日われわれのなすべきことは、室内の植木鉢のなかで小麦をそだてることではない。われわれは毒麦を抜きとり、それによって小麦の種子が発芽できるように土壌をきよめ」それができる「刈り入れ人」を養成しなければならない。(P171)

 

 「だから、合法化によってはわれわれは、なるべく秘密でない、できるだけ広範な労働組合組織をつくりだす問題を解決できないのである。…しかし、部分的な可能性でもひらいてくれるなら、われわれは大喜びするだろう」「…あとに残るのは秘密の労働組合的組織《→つまり②の「ルーズな労働組合的組織》だけである」(P172)

 

・レーニンは労働者の組織と革命家の組織(つまり労働組合と党)を区別し、非合法という条件のもとで、まず革命家の組織から着手すべきこと、革命家の組織がしっかりとしたものとしてつくりあげられさえすれば、《むしろ》労働組合は「ルーズ」な形のほうがその機能を果たすであろうと述べている。

「もしわれわれが強固な革命家の組織をしっかりうちたてることからはじめるなら、運動全体に確固さを保障し、社会民主主義的な目的をも、本来の組合主義的な目的をも、両方とも実現することができるであろう。もしこれに反してわれわれが、大衆に最も『近づきやすい』と称する(そのじつ、憲兵にとってもっとも近づきやすく、そして革命家を警察にもっとも近づきやすくするところの)広範な労働者組織からはじめるなら、手工業性を脱却することもできないで、我々自身がちりちりばらばらになり、いつも壊滅状態になる……」。

 

→今日、自由主義諸国のほとんどの国で労働組合の権利が認められている。にもかかわらず、労働組合社会主義的綱領を掲げたのは、コミンテルンの指導下でつくられた赤色労働組合以外にはほとんどなかった。しかも、この政治組織と労働組合を一体化させようという誤った試みは当然のこととして失敗に終わった。そして今日、ほとんどの労働組合は例外なく「労働条件と労働者の社会的地位の向上」という、それ自体ブルジョア民主主義の枠内での活動を目的として掲げている。

レーニンは労働組合の合法化が切り開く可能性について否定しなかったし、ブルジョア民主主義的権利をも積極的に利用するべきであると主張している。

しかし、同時に、労働組合の合法化にいささかの幻想も抱かなかった。確かに、ロシアの圧制という特殊歴史的条件のもとではあったが、それでは合法化された国々において社会主義運動が前進しただろうか。それどころか、経済主義と労働組合主義が革命運動の足かせとなり、妨害物にさえなってこなかっただろうか

レーニンは次のように述べ、早くから合法化されたイギリスの労働組合が「経済主義」「労働組合主義」に陥ったおかげで、マルクスの当初の期待にも反して、労働者階級を革命的政治闘争からそらしてしまったこと批判しつつ、革命のための政治闘争と経済主義的政治闘争を区別することの必要性を述べているのである。

「徹底的な学者である(そして『徹底的な』日和見主義者である)ウェッブ夫妻の著作〔『イギリス労働組合の理論と実践』〕を一読すれば、イギリスの労働組合がすでにとっくの昔から『経済闘争そのものに政治性をあたえる』任務を自覚して、それを実現しており、とつくの昔からストライキの自由のため、協同組合運動や労働組合運動にたいするありとあらゆる法律上の障害をとりのぞくため、婦人や児童の保護の法律を発布させるため、衛生法や工場法の制定によって労働条件を改善する、等々のためにたたかっていることがわかるであろう」

このことを考えるなら、ここで述べられている党と労働組合の関係が特殊非合法時代のロシアにおける戦術であり、労働組合が合法化されている現代のわれわれにとっては考察の対象ではない、と考えるのは誤りだろう。

初期のレーニンには労働組合論がなかった、労働組合を重視したのはずっと後からだったなどと、レーニンの労働組合論の変遷を批判する論もあるが、労働者組織の中に党の影響力が広く深く浸透し、実質的に労働組合の意思を代表するようになれば、おのずと労働組合組織と党との緊密さが増すのは当然であり、それでも労働組合と革命党のあいだに一線を画し、労働組合を固定した概念に閉じ込めようとすることのほうが非現実的であり、反動的である。つまり「緊密な結びつき」は、労働者のなかでの革命党の影響力の程度に応じて変化するのであり、だからこそ、革命家の組織をうちたてることから始めなければならないのである。

 

4)組織活動の規模

経済主義者は「社会は革命的活動に適した人物をきわめて少数しかうみださない」「工場で十一時間半も働く労働者は扇動家としての役割しか果たしえない」と言って、せまい経済闘争の立場から、革命家は工場の労働者の中からしか生みだされないと考え、また労働者が職業革命家へと飛躍することを否定するから革命的人材を見つけることができないのだ。

「人がいない、しかも人はたくさんいる。…人がたくさんいるというのは、労働者階級ばかりではなく、ますます多種多様な社会層が、不満を持つ人々、抗議したいと願っている人々、絶対主義との闘争に応分の援助をあたえる用意のある人々を年ごとにますます数多く生みだしてくる」という意味であり、「人がいないというのは、指導者がいず、政治的首領がいず、また、どんなにわずかな勢力でもあらゆる勢力に働く場をあたえるような、広範であると同時に統一ある、整然たる活動を組織することのできる、才能ある組織者がいない」ということだ。(p189)

 

つまり、行動に適した革命的勢力の不足という問題は、人材がいないのではなく、彼らを活用する才能を持った指導者がいないということなのだとレーニンは指摘している。

そして、その結果「革命的組織の成長と発展は、…労働運動の成長に立ち遅れているだけではなく、さらに人民のすべての層のあいだの一般民主主義的運動の成長にも立ち遅れている」

そして、専門化と集中化の問題、および労働者革命家を育てることを提起している。

<専門化と集中化>について(p190-191)。

① 「政治的扇動家だけでなく、社会民主主義的組織者も『住民のすべての階級のなかにはいって』いかなければならない」(→単に扇動の対象にするだけでなく)

② 「組織活動の幾千のこまごまとした機能を、種々さまざまな階級に属する個々の人たちに分担させること(――専門化が足りないことは、われわれの技術的欠陥だ)。

  共同事業の個々の「作業」が細かくなればなるほど、この作業を果たす能力のある(そして、大多数の場合に職業革命家になるにはまったく適していない)人物をますます多く発見できるし」、警察がこれらの局部的な働き手を一網打尽にすることは不可能である。

③ 運動の機能を細分しながらも、運動の全体性、計画性を保障し、この運動そのものは細分させず、さらにこの機能を担う人々が「自分の仕事の必要性と意義とに対する信念―そういう信念がなければ彼らは決して仕事をしないだろう―」をいだくことが必要である。そのためにも「試練を経た革命家の強固な組織」によってしっかりと秘密が守られること、それが党の力に対する信念を高める。

④    運動に引き寄せられる「外部の」分子によって、運動が軌道からそれされる危険性を避けるためには確固たる理論的基礎にたって機関紙を駆使する組織が必要である。「一言で言えば専門化は必然的に集中化を前提し、また逆に専門化によって集中化が絶対の必要になる。」

→そして、このような細分化=専門化と集中化が組織できる党であるならば、こういう(職業革命家に対する)補助者をあらいざらい矢おもてに晒したり、むやみに非合法活動の中核に引き入れたりせず、逆に彼らを特に大切にし、また学生の場合には、短期の革命家としてよりも役人になって、補助者としてより多く党に貢献できる者も数多くいることを念頭において専門化を養成するだろう。

(運動は)すでに、サークル的活動では間にあわないほどに成長しているために、「サークル的活動は、こんにちの活動にとっては狭すぎるものとなり、法外な力の浪費をもたらしている。一つの党に融合することだけが、分業と力の節約との原則を系統的に実行する可能性をあたえるであろう。そして、犠牲者の数をへらし、専制政府の圧制とその必死の迫害とに抗して多少とも堅固な防砦をつくりだすためには、これを達成しなければならないのである。」(レーニン全集第4巻「緊要な問題」)

 

 <労働者革命家を育てること>

① 党活動の面で(*)インテリゲンチャ革命家と水準を同じくする労働者革命家の養成をたすけることが、われわれの第一の、もっとも緊急な義務である。だから、「経済主義者」が、労働者への政治的扇動を「中程度の労働者」にあわせると称して否定し、労働者が革命家に進む道を断ち切っていることはきわめて反動的なのである。

 *労働者革命家とインテリゲンチャは職業・知識その他の面において、おなじ水準であるとは限らないし、それを求める必要もない。だが党活動の面においてはいかなる階級、階層の出身であれ労働者革命家とまったく対等である。

→「経済主義者」は職場の中で、ときに資本との関係では戦闘的に闘いながら、労働者に向かっては政治的扇動をせず、予め自分を職業革命家から切断する点でも日和見主義なのである。

② さらに、労働者革命家も、自分の革命家としての仕事について完全な修業をつむためには、そこにとどまることなく、やはり職業革命家になることが必要である。

 また指導者は、すべての能力のすぐれた労働者革命家をたすけて、職業的な扇動家、組織者、宣伝家、配布者などにさせるという任務を自覚的に行わなければならない。

 じっさい、運動が高揚すればするほど、労働者大衆は、才能ある扇動家だけではなく、才能ある組織者や宣伝家、実践的能力をもった革命家が生み出されてくる。

 彼が、労働運動のなかで培った経験や手腕、広範な人間関係をも利用し、ひとつの職場からひとつの地方、さらに全国へと仕事の場を与え、そのために、いっそう広い見識と専門的訓練を積む機会を組織の力で保障すること。

 このような労働者革命家をどれだけつくれるかが、この事業の規模を決定づけるのである。

 →「経済主義者」は、労働者革命家となるべき有能な労働者を、狭い労働組合活動家の位置に押しとどめることで、ますます活動の規模を狭いものにしているのである。

 では、どのようにして労働者革命家をつくるのか。レーニンはドイツの例を出して次のように述べている。

 「有能な労働者と見れば、すぐさまその能力を十分に発揮し、十分にはたらかせることのできるような条件のもとに、彼をおこうとつとめる。彼は職業的扇動家とされる。その活動舞台をひろげて、ひとつの工場からその職業全体へ、一つの地方から国全体へとおよぼしてゆくよう励まされる。彼は自分の職業についての経験と手腕を獲得し、その視野と知識をひろげる。他の地方や他の党のすぐれた政治的指導者を身近に観察する」。自分でも同じ水準に到達しようとつとめ、敵の頑強な隊列にたいして闘争をおこなうことのできる職業的修練に自分を結び付けようとする。(p197)

 「われわれが、労働者にも『インテリゲンチャ』にも共通の、この職業革命家としての修業の道へ労働者を『駆りたてる』ことが少なすぎ、労働者大衆や『中程度の労働者』にはなにが『とりつきやすい』かなどという愚論によって労働者を引きもどしている場合がおおすぎる……」(こうしたことを含めて、いろいろな点で)「組織活動の規模が狭いことは、われわれの理論やわれわれの政治的任務がせばめられていることと不可分の関係があることは、疑いをいれない。」それは、自然発生性への拝跪であり、大衆から一歩でも離れてしまうことに対する恐怖があるからだ。(p197)

 

(以下第五回に続く)

相模原障がい者殺傷事件 未だに見解を述べない安倍政権

相模原市障がい者施設で起きた殺傷事件について、安倍晋三首相は26日の党役員会で、「多数の方が亡くなり、重軽傷を負われた。真相を究明しなければならず、政府として全力を挙げたい」と述べた。

また、菅義偉官房長官は記者会見で、事件に関し「現在のところ、警察から事件の被疑者とイスラム過激派との関連を示す情報は把握していない」と語った。

言うにこと欠いて、重度障がい者が選別的に襲撃された事への憤りを示すのではなく、「イスラム過激派のテロではなさそうだ」ということでホッとしている心情を吐露したのだ。

  

28日に政府はこの事件をうけて関係閣僚会議を開いた。

安倍晋三首相は会議で「事件を徹底的に究明し、再発防止、安全確保に全力を尽くしていかなければならない」と強調。その上で、「施設の安全確保の強化、措置入院後のフォローアップなど必要な対策を早急に検討し、できることから速やかに実行に移してほしい」と指示した。

安倍首相からは、いずれも多くの人命が失われた事への一般的な追悼だけしか伝わってこない。

27日に犯行現場となった「津久井やまゆり園」を視察した塩崎恭久厚労相措置入院に関し、「警察との連携を視野に、行政ややまゆり園との連携が適切だったか検証していく。入院の原因は大麻だったということで、大麻(中毒)へのフォローアップを十分に考えていかなくてはいけない」と述べ、措置入院のあり方を問題にしたうえで、植松容疑者の犯行があたかも薬物によるものであるかのよう言っている。

ここには2つの問題がある。

第一は、植松容疑者をして障がい者の殺害を実行に至らしめた、その価値観について一切言及しようとしないことである。事前に衆議院議長公邸を訪れ、犯行計画書を届けた人間には、それを正当化するべき積極的な理由=価値観が存在したことは明らかだ。

措置入院」をさせれば考えを変え、思い止まるとでも思ったのか。

また、退院の判断が甘かったとか言っているが、そもそも彼自身の考え方が自傷他傷の危険性を持っていたとしても、予防拘禁としての「措置入院」が医療行為ではないこと、したがって精神科医には退院の時期の判断など出来るはずもないことだった。

その判断ができるとすれば、それは警察権力だけだろう。

したがって第二には、「措置入院の在り方」の検討とは措置入院を警察主導で行うことを意味し、やがては危険な思想の持ち主(政府に都合の悪い人物)=精神異常者として「公共への危険を排除する」という名目で「措置入院」(実質的な予防拘禁)させることが当たり前といった世論誘導に道を開こうとしているのだ。

 

この事件は、重度障がい者を社会的に抹殺することが国家のためだという、とんでもない優生学的思考を根拠として計画的に行われた犯行であり、このような考え方を放置すればヘイトクライム、すなわち白色テロに道を開くものである(すでにそのような性格を有している)。仮に、植村被告が薬物使用者であり、妄想に囚われ、自分の計画に酔っていた部分があったにせよ、決して一般の通り魔殺人や精神異常者、あるいは社会的怨恨や不満を晴らすためにやったというような事件ではない。

であればこそ「障がい者を排除すること=正義」として正当化するような価値観とそれを生み出す社会的背景・土壌こそが問題にされなければならない。

卑しくも、安倍晋三が一国の首相であるならば、「イスラム国」のテロに対して宣言したように「いかなるテロにも屈せず」ヘイトクライムから障がい者を守るために政府は万全の措置をとると言うべきではないのか。

各国の首脳がただちにメッセージを発しているときに、公式な政府見解もコメントも出していないのは、この事件の本質を見ようとしないか敢えて隠そうとしているからだとしか思えない。

 

このような価値観を社会に蔓延させたのは安倍政権とその取り巻きによる排外主義、差別主義、国家主義イデオロギーの拡散である。

事実、この事件の後には安倍政権の応援団とおぼしき者たちが、ネット上で植松容疑者に同調するような書き込みをしているが、彼らの多くはこの間ヘイトな発言を繰り返してきた人たちである。

 

★ネットで広がる「植松容疑者の主張はわかる」の声

http://lite-ra.com/2016/07/post-2459.html

自民党ネットサポーターズクラブ会員を称する者のブログが、事件後「重度障害者を死なせることは決して悪いことではない」なるタイトルの文章を公開。

 

新しい歴史教科書をつくる会藤岡信勝さんが相模原殺傷事件でも人種差別デマ「植松聖容疑者は在日」

  http://matome.naver.jp/odai/2146963651880379101

 新都知事・小池百合子を応援した「つくる会」の藤岡は、あろう事か自分たちが煽ってきた排外主義の恐ろしい結末におののいたのか。障がい者差別抹殺に手を染めたのが在日であるかのような許し難いデマを流すことで自らの責任を逃れようとしている。

 

★安倍自民党政権ヘイトスピーチ社会を作っている。・・・

http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/e5999b735d9c65ca0561f0cae7318e2a

 

精神障害者ら7.9万人、受給減額・停止も 年金新指針で ―医師団体推計

                                                                 2015/12/12 21:43 日経新聞

 

安倍政権下における差別的、排外主義的イデオロギーの拡大、弱者切捨ての政策は、本質的には自民党日本会議の人権に対する考え方、憲法観にかかわる問題である。

本来、憲法上すべての人が等しく保障されるべき基本的人権について、彼らは国家=公益の下に置き、国家的利益に貢献できないものは排除し切り捨ててもかまわない、という公益論を前面に押し出そうとしている(この考え方は自民党改憲草案の基礎になっているものでもある)。

従って、安倍政権が戦争と改憲への衝動を強め、その前提として戦後憲法の下で培われた国民の価値観を作り変えるために、右翼的市民運動、SNS、メディア戦略を駆使して、排外主義、差別主義、社会的弱者排撃のイデオロギーを振りまいているのである。

こうした攻撃は、新自由主義の下での格差の拡大と民営化・規制緩和によって、本来社会全体の力で護られなければならない託児、老人介護、障がい者施設、医療現場等々に極限的な矛盾を集中させている。とりわけ、そこで働く労働者には低賃金と劣悪な労働条件、慢性的な人員不足。更にいつ失業するかも分からない不安が襲い掛かっている。そうしたストレスに追い詰められ、他人を蹴落とし、貶め、差別することで自分の居場所を見つけようとする者が現れたとき、自己を正当化するための論理が排外主義的、ヘイト的なイデオロギーに他ならないのである。