正道有理のジャンクBOX

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― 他の動物より人間が優れているとすれば、蓄積された知識や経験から自分の行為がもたらす成果や結末を予測し得ることである ―

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「高プロ」法案=残業代ゼロ法案の強行成立を弾劾する!

労働時間の短縮は19世紀から続く労働者の普遍的闘い

18世紀から19世紀の初めイギリスで産業革命が起きた頃、労働者は1日14時間~18時間も働かされていた。この長時間労働に反対する闘いが活発になり、やがて一日の労働を最大10時間とする「工場法」が作られた。その後、1886年5月1日、合衆国カナダ職能労働組合連盟がシカゴを中心に8時間労働制を要求して2万社余りの労働者が統一ストライキを行った。集会とデモには、ニューヨークやボストンなどを含め38万人以上の労働者が決起した。これが全世界に波及しメーデーの起源となったのである。

この時の米労働者のスローガンは「8時間の労働、8時間の睡眠と休息、残りの8時間は自分のために」だった。

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今日、労働基準法に定められている8時間労働制は、こうした全世界の労働者の営々たる闘いで勝ち取ってきたものである。

  • 安倍政権は、労働者が血と汗で闘い取ってきた8時間労働制を再び130年以上前の無権利に近い状態に引き戻す「働き方改革なる労働法制の改悪を進めている。

    そればかりではない。あろうことか、この忘れてはならない労働者の権利の記念日=メーデーを新天皇即位の記念日とすることによって、その歴史的意義をも抹殺しようとしている。断じて許すことはできない。

労働時間の短縮は賃上げと並ぶ攻防の焦点だった

 戦後日本の労働運動の中でも労働時間短縮の闘いは、少しでも労働時間を延長したい資本側とのせめぎ合いとして賃金要求と共に、いやそれ以上に労働者の基本的権利を守るものとして重視されてきた。

 資本の側は休憩時間を厳格に監視しトイレタイムや水飲み、喫煙の回数をチェックする、守衛所に設置されていたタイムカードをより仕事場近くに移動する、始業・終業の整理清掃や準備体操、ミーティングなどを労働時間外にさせる、さらにはQC活動と称して改善提案の為のサークル活動を時間外に半強制的に無給(サービス残業)で行わせる等々、隙あらば僅かの労働時間も延長しようとしてきた。

そのために、節電に名を借りた冷水器の撤去など「些細な事」でも労働者の既得権を侵害するすべての問題が労使交渉―紛争になる場合があった。

死の危険を考える程の超過労働、どこに人間らしさがあるのか

 資本主義的生産の発展にともない、労働者階級が社会的生産の重要な担い手になって以来、その雇用主との労働時間をめぐる闘いはもっとも基本的、根底的なものであった。

他人に雇われて「働くこと」によって賃金を得る以外に生活の手段を持たない労働者にとって、「仕事が終わってから」はじめて「自分の生活」が始まるのであり、その中にこそ家族の健康や幸福があり、文化的生活の実体があるのだ。まさに、人間が人間らしい生活を送るための要求が8時間労働だったのである。

 だから「健康で文化的な生活」の権利を追求するときには、必ず労働時間の短縮―すなわち資本によって拘束される時間を短縮すること、つまり自分と家族が自由に過ごせる時間の拡大―を要求してきたのだ。

 ところが、今や「過労死」が問題にされているのだ。働き過ぎで死の危険を考えるような労働条件のどこに人間らしさを求めることができると言うのか。もはや、憲法が保障する「健康で文化的な生活」以前の話なのだという事をしっかりと認識する必要がある。

 経団連の強い要請とそれを受けた安倍政権の「高プロ」法案=残業代ゼロ法案の強行成立、更に改めて次期国会への提出が狙われている「裁量労働制」、労働者を過労死するところまで働かせるような労働法の改悪策動は、労働者が家畜のように扱われてきた18世紀末の劣悪な労働条件に引き戻すに等しく、時代錯誤も甚だしい。

 原点に立ち返って労働者の権利を奪還しよう

 かつて、社会主義者たちは電化が進むこと(今日的に言えばIT産業の発達)は極めて少ない労働時間と、そして誰にでもできるような単純作業によって社会的富を生産し、残された時間が人民の豊かで幸福な、知的生活の為に使われるに違いない、という理想を描いていた。しかし、それは資本家階級がその利潤を追い求める社会が続く限り、叶わない話である。

 残念ながら、我々が目にしている現実は18-19世紀の初めに戻りつつあるかのようだ。それならば今我われに求められるのは、19世紀の労働者階級が無権利状態の中から立ち上がり、荒々しい階級闘争を通じて働く者の権利を確立してきた歴史に学びながら、もういちど労働者の権利を取り戻す道を拓くことだ。