正道有理のジャンクBOX

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正道有理のジャンクBOX

― 他の動物より人間が優れているとすれば、蓄積された知識や経験から自分の行為がもたらす成果や結末を予測し得ることである ―

レーニン『なにをなすべきか?』学習ノート (第三回)

【三】組合主義的政治と社会民主主義的政治

『ラボーチェエ・デーロ』第10号の論文でマルトィノフは「……『イスクラ』は、……事実上、わが国の諸制度、主として政治上の制度をばくろする革命的反政府派の機関紙である。……他方われわれは、プロレタリア闘争と緊密な有機的結びつきをたもって、労働者の事業のため活動しているし、また将来も活動するであろう」といって両者の意見の違いを定式化した。

 

冒頭、レーニンはこの文章を引用し、この定式化こそ、「『ラボーチェエ・デーロ』との意見の相違を包括しているだけではけっしてなく、政治闘争の問題についてのわれわれと『経済主義者』とのあいだの意見の相違の全体をおしなべて包括している」「『経済主義者』は絶対的に『政治』を否定するのではなく、社会民主主義的な政治の見方から組合主義的な政治の見方へ、たえずまよいこんでいくにすぎない」(84~85P)と指摘している。

→この定式化はこの章で何度も引用されるので、あらかじめ、次の点を押さえておきたい。

 ここで「経済主義者」が言っている<革命的反政府派>とは、学生やゼムストヴォ議員などの「反政府諸層」を指導する「階級的見地をはずれ」た人々のことであり、それに比して自分たちは「労働者との結びつき」を保ち「労働者の事業のために活動して」いるのだから自分たちこそが、主流派(階級的)なのだと言いたいということだ。

 こうした経済主義が主流となっている現状に対して、社会民主主義者の政治的任務は何なのか、そしてプロレタリアートの階級性とは一体何なのか、レーニンはこの章でそれを提起しているのである。

 

1)政治的扇動、および経済主義者がそれをせばめたこと

当時のロシアでは、労働者の経済闘争が広範にひろまり、経済的暴露が「もっともおくれた労働者のあいだにさえ、『活字にしたい』という真の熱情が、略奪と抑圧のうえに築かれた現代の全社会制度との戦争の、この萌芽的な形態への高貴な熱情」を呼び起こしていた。

「一言でいえば、経済的(工場内の状態の)暴露は経済闘争の重要なテコであったし、いまでもそうである」(P86)

それは、「階級意識のめざめの出発点」と言えるものであった。当時のロシア社会民主主義者の圧倒的多数は、もっぱら工場内の状態を暴露するこの仕事にのみ没頭していた。しかし、この仕事は、それ自体ではまだ組合主義的な活動に過ぎない。

「実質上、この暴露は、その当の職業の労働者と彼らの雇主との関係をとらえただけで、それによってなしとげられたのは、労働力の売手が、この『商品』をより有利な条件で売ることを、また純商業取引の基盤のうえで買手とたたかうことを、まなびとったことだけであった」

「こういう暴露は、(革命家の組織がそれを一定のやり方で利用するときには)社会民主主義的活動の端初とも、構成部分ともなることのできるものであったが、しかしまた、『純職業的な』闘争と非社会民主主義的な労働運動とに導くものともなりえた」

「…社会民主主義派は、ひとりその当該の企業家集団にたいしてではなしに現代社会のすべての階級にたいして、組織された政治的暴力としての国家にたいして、労働者階級を代表するのである。これからして明らかなことは、社会民主主義者は、経済闘争にとどまることができないばかりか、経済的暴露の組織が彼らの主要な活動であるような状態を許すこともできないということである。われわれは、労働者階級の政治的教育に、その政治的意織を発達させることに、積極的にとりかからなければならない」(P88)

レーニンはこのように社会民主主義者の任務を明確に定義している。

 

【政治的扇動について】

ロシアの階級闘争に、アジテーションという手法が持ち込まれたのは、1894年であった。この年に、のちのブント創設に関わったア・クレメールという人が執筆し、マルトフが校訂した『煽動について』という小冊子が持ち込まれた。それ以前は、宣伝による社会主義思想の普及ということが社会主義者の中心的活動であった。

当時、ナロードニキがテロルによる専制の打倒を目指していたことに比して、社会主義者によるマルクス主義の宣伝はある種、穏健な活動とみられていたようである。

しかし、宣伝活動という性格(=社会主義理論を全面的、体系的に広めようとする)からして、主に知識人を中心にしたサークル的なものとなり、労働者に接近して思想を広めようという試みは行われたが、ほとんどは無視され、まれに知的な金属労働者のあいだで教養として受け入れられる程度に止まっていたようである。

そうした状況を一変させたのが、この『煽動について』という小冊子の登場でした。

「自分たちの乞食のような生活や途方もなく苦しい労働や、無権利状態について、余すところなく語る新しい種類のリーフレット…」(P85) はこうして作られるようになり、ロシアの革命的インテリゲンチャナロードニキができなかった労働者との結合を初めて実現したのです。 

 彼らは工場内の暴露に熱中し、労働者もこれに応えて通信をよせてきました。

「一言で言えば、経済的暴露(工場内の状態の暴露)は経済闘争の重要なテコであったし、いまでもそうである。そして、労働者の自己防衛を必然的に生みだす資本主義が存在している限り、それは引き続いてこの意義を保つであろう」(P86)

ここで、なされた転換の重要な点は、労働者自身が日々搾取と収奪に苦しむその現場の実態を暴露し、労働者の憤激を組織することが社会主義者の手によって開始されたことである。

経済闘争の分野において画期的成功をもたらし、インテリゲンチャも労働者革命家もきわめてすぐれた手腕を磨き上げたこのアジテーション扇動という手法を政治闘争の分野に全面的に適用しようというのがレーニンの主張であった。

労働者階級が革命をとおして自らを支配階級へと高めるためには、労働者階級の政治的積極性を育てなければならない。これが、一貫したレーニンの考えです。

では、この政治的教育はいったいどういうものでなければならないか?

 レーニンは「労働者階級は専制にたいして敵対的な関係にあるという思想を宣伝するだけ」でも、また「労働者にたいする政治的抑圧を説明するだけ」でも足りない。さらに、「この抑圧の一つ一つの具体的な現れをとらえて扇動することが必要なのだ」「この抑圧は、種々さまざまな社会階級にのしかかっており、職業的といわず、一般市民的といわず、個人的といわず、家庭的といわず、宗教的といわず、学問的、等々といわず、種々さまざまな生活と活動の分野に現れているのだから、専制の全面的な政治的暴露を組織する」ことなしに、社会民主主義者は労働者の政治的意識を発達させるという自分の任務を果たしえないと、暴露・扇動による組織化を経済闘争のみならず、政治闘争にも全面的に適用すべきであると述べている。(P89)

 

これに対して、『ラボーチェエ・デーロ』は「いま社会民主主義者の当面する任務は、どうやって経済闘争そのものにできるだけ政治性をあたえるか、ということである」「経済闘争は、大衆を積極的な政治闘争に、引きいれるために、もっとも広範に適用しうる手段である」等々と一貫して政治的扇動は経済的扇動のあとに従わなければならないという日和見主義的な段階論をとり、あらかじめ政治的扇動の規模をせばめるのである。

 レーニンはこう反論する。「経済闘争が-般に、大衆を政治闘争に引きいれるために『もともと広範に適用しうる手段』であるというのは、正しいであろうか? まったくまちがっている。警察の圧制や専制の乱暴のありとあらゆる現れも、このような『引きいれ』のために『広範に適用しうる』手段である点ですこしもおとるものでなく、けっして経済闘争と関連のある現れだけがそういう手段なのではない」(P90)

「労働者が…日常生活で無権利や専横や暴行に苦しめられる場合の総数のなかでは、まさに職業的闘争で警察の圧制をこうむる場合(の方)がほんの一小部分を占めるにすぎないことは、疑いがない」(P91)

「経済闘争はできるだけ広範に行われなければならないし、それはつねに政治的扇動に利用されなければならない、しかし、経済闘争をもって、大衆を積極的な政治闘争に引きいれるためにもっとも広範に適用しうる手段とみる『必要はまったくない』」(P92)

 

経済闘争とは労働力販売の有利な条件を獲得するため、労働条件と労働者の生活状態を改善するために、労働者が雇い主に対して行う集団的=組織的闘争であり、必然的に職業的闘争である。したがって「経済闘争そのものに政治性をあたえる」ということは、この同じ職業的要求、同じ職業別の労働条件改善の実現を、「立法上、行政上の諸施策」によってかちとるべくつとめることである。これはまさしくすべての労働組合が現にやっており、つねにやってきたことである。結局、彼らはもっぱら経済的な改良だけを(それどころか、もっぱら工場内の状態の改良だけを)問題にする。時として政府から譲歩が得られるとしても、それがもっぱら経済的分野に限られた諸施策であることを知っている。

「経済主義者」はつねに、社会民主主義的政治を組合主義的政治に低めようとする指向性を持っているのである。

 

「革命的社会民主主義派が『経済的』扇動を利用するのは、政府に各種の施策を実施せよという要求を提出するためだけでなく、また(そして第一に)この政府が専制政府であることをやめよ、という要求を提出するためである。そればかりではない。革命的社会民主主義派は、この要求を、たんに経済闘争を基礎として提出するだけではなく、およそあらゆる社会=政治生活の現れを基盤として提出することをも、自分の義務と考えている」

「革命的社会民主主義派は、改良のための闘争を、全体にたいする部分として、自由と社会主義とのための闘争に従属させる」(P96)

 

2)マルトィノフがプレハーノフを深めた話

この節は、次に政治的扇動について本格的に検討する前に、経済主義者が「宣伝と扇動」の差異をどのように理解し、その活動がどのような性格をもっているのかについて前提的に確認している部分である。

→まず、プレハーノフの定式(それまでの国際労働運動のすべての指導者もこの立場だった)

「宣伝家はひとりまたは数人の人間に多くの思想をあたえるが、扇動家は、ただ一つの、または数個の思想をあたえるにすぎない。そのかわりに、扇動家はそれらを多数の人々にあたえる」

→ マルトィノフの定式

「宣伝という言葉を、個々の人間にとって理解しやすい形態でなされるか広範な大衆にとって理解しやすい形態でなされるかにかかわりなく、現制度全体または部分的現れを革命的に解明するという意味に解したい。また、扇動という言葉を、厳密な意味では(……)大衆にある具体的行動を呼びかけるという意味、社会生活へのプロレタリアートの直接の革命的闘争をうながすことと解したい」

 

マルトィノフは宣伝とは社会的事象や制度全体、または一部分の表れを革命的に語ることであり、扇動とは大衆に直接行動を呼びかけることだと言っている。しかし、「一定の具体的行動を呼びかけること」は宣伝においても扇動においてもなされることである。

マルトィノフが、わざわざプレハーノフを「深めた」根拠は、ただ一点『イスクラ』が、「一定の目に見える成果を約束する」「立法上および行政上の諸施策の具体的要求を政府に提出する任務をかげに」押しやり、「現行諸制度の全面的な政治的暴露を組織する」ことしかやっていない、と言って社会民主党の任務を否定せんがためなのだ。

より深遠なマルトィノフの新しい定式化によってプレハーノフは「深められた」とレーニンは揶揄し、改めて宣伝と扇動について説明している。

(実は今日においても、この宣伝と扇動という言葉の意味があいまいにされ、ともすればマルトィノフ的な理解をしている現実がある。これはレーニン組織論の理解にとっても、大衆の信頼をかちとる上でも致命的ともいえる問題なのだ)

 

→レーニンによる定式化

「宣伝家は、『多くの思想』 ― しかもそれらすべての思想全体をいっぺんにわがものとできる人は(比較的にいって)少数でしかないような 多くの思想をあたえなければならない

「扇動家は、同じ問題を論じるにしても、自分の聴き手全部にもっともよく知られた、もっともいちじるしい実例…だれでも知っている事実を利用して、ただ一つの思想、富の増加と貧困の増大との矛盾がばかげたものである(等々)の思想を『大衆に』あたえることに全力をつくし、大衆のなかにこのようなはなはだしい不公平に対する不満と債激(=人間的怒り、これこそ人間解放の原動力であり自然発生的なエネルギーである)をかきたてることにつとめが、他方、この矛盾の完全な説明は、宣伝家にまかせるであろう」(P103)

 

3) 政治的暴露と「革命的積極性をそだてること」

 マルトィノフは「労働者大衆の積極性をたかめる」ことは、経済闘争のなかで『もっとも広範に適用されるべき』ものであると宣言し、経済主義者の全部がそのまえにはいつくばっている。

「実際には、『労働者大衆の穣極性をたかめる』ことは、われわれが『経済を基盤とする政治的扇動』にとどまらないばあいに、はじめてなしとげられることである」

そして、こうした「政治的扇動の必要な拡大がなされるための基本的条件の一つは、全面的な政治的暴露を組織することである。このような暴寿による以外には、大衆の政治的意識と革命的横極性とを培養することはできない。だから、この種の活動は、全国際社会民主主義派のもっとも重要な機能の一つをなすものである」(P106)

このようにレーニンは、ドイツの党の強さの根拠は、ほかならぬ政治的暴露カンパニアを弱めなかったことにあると述べ、次のように述べている。

「もし労働者が、専横と抑圧、暴力と濫用行為のありとあらゆる事例――この事例がどの階級に関係するものであれ―― に反応する習慣を、しかも、ほかのどの見地からでもなくまさに社会民主主義的な見地から反応する習慣を得ていないなら、労働者階級の意織は真に政治的な意識ではありえない」

「もし労働者が、具体的な、しかもぜひとも焦眉の(切実な)政治的事実や事件にもとづいて、他のそれぞれの社会階級の知的・精神的・政治的生活のいっさいの現れを観察することを学びとらないなら――また住民のすべての階級、層、集団の活動と生活のすべての側面の唯物論的分析と唯物論的評価を、実地に応用することを学びとらないなら、労働者大衆の意識は真に階級的な意識ではありえない」(P106~107)

つまり労働者階級が、社会に起こっているすべてのことを正しく認識する能力とマルクス主義理論を実地に適用する能力を養成するためには全面的政治暴露が必要だと言っている。

したがって「労働者階級の注意や観察力や意織をもっぱら、でないまでも主として、この階級自身にむけさせるような人は、社会民主主義者ではない

 

【「労働過程」論と人間の意識=認識の形成についての考察】

→ここでレーニンが提起している扇動の意味を、労働者の認識はどのように形成されるのかという意識形成論として検討することは、どのような煽動が求められているのかを考えるうえでも極めて重要と思われる。

  

レーニンは、先に引用したように「労働者階級は専制にたいして敵対的な関係にあるという思想を宣伝するだけ」でも、また「労働者にたいする政治的抑圧を説明するだけ」でも足りない。さらに、「この抑圧の一つ一つの具体的な現れをとらえて」扇動するときにのみ事の真実をつかむことができる、これが労働者、労働者階級の認識のしかただと言っている。

では、なぜ労働者は「説明をするだけでは足りない」のか。反対に具体的事柄の暴露とこれに基づく扇動ならなぜ理解できるのか。問題の核心はここにある。レーニンは次のように言う。

「労働者階級の自己認識は、現代社会のすべての階級の相互関係についての、完全に明瞭な理解――単に理論的な理解だけでなく、さらに…理論的な理解よりも、むしろ、というほうが正しくさえある…政治生活の経験に基づいて作り出された理解――と、不可分に結びついているからである」(P107)

 レーニンはそうしたプロセスに従えば労働者階級は(労働者だけの問題に限らず、あらゆる階級や階層の)現代社会で起こっているすべての政治的問題とその相互関係について「明瞭な理解」ができる能力をもった階級であることを認めるとともに、ここから、さらにすべての社会問題を唯物論的に分析したり、評価できるような訓練が必要だと言っている(ここが「経済主義者」と違うところ)。

「われわれがそういう暴露を組織するなら、どんなに遅れた労働者でも、学生や異宗派、百姓や著作家を罵倒し、これに暴行を加えているのは、労働者自身をその生活の一歩ごとにあのようにひどく抑圧し、押し潰している、まさにその同じ暗黒の勢力であることを理解するか、でなければ感じるだろう。だが、それを感じた以上、労働者は自分でもこれに反応したいという願望、しかも押さえ切れない願望をいだくであろう」(P109)

つまり、労働者は社会のあらゆる問題を、自分たちの具体的な経験に即して理解するときに世界をも理解できる階級だと言っているのである。インテリゲンチャが「明瞭な理解」をする場合には、宣伝や学習は極めて有効な手段にちがいない。しかし、労働者の認識にとっては、それ以上に扇動が特別に重要な意味をもっているということなのである。

それはなぜなのか?。レーニンの組織戦術にとって、これはこれで重要な問題を提起している。

それを解明するためにも、人間の認識(意識)はどのように形成されるのかを押さえておくことが重要である。

資本論第一篇第5章では商品の二面的性格である使用価値と価値のうち、使用価値という側面について、また第7章では剰余価値を導くものとして「労働過程」について述べている。

① 人間は自己の欲求を満たし生命を維持するために、自然素材に働きかけ使用価値を生産する。労働とは合目的的な人間労働と労働対象、それと労働手段という三つの契機をもってする「労働過程」である。この「人間と自然との物質代謝」はどのような社会においても変わらない自然的必然である

 

② 資本論においては価値法則を導く視点から労働過程を論じているのであるが、それにもかかわらず、以下のような重要な示唆を与えていることに留意しなければならない。

「労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程、すなわち人間が自然とその物質代謝を彼自身の行為によって媒介し,規制し,管理する一過程である。……人間は,この運動によって自分の外部の自然に働きかけて、それを変化させることにより、同時に自分自身の自然を変化させる

「彼は自然的なものの形態変化を生じさせるだけではない。同時に彼は自然的なもののうちに、彼の目的――彼が知っており、彼の行動の仕方を法則として規定し、彼が自分の意思をそれに従属させなければならない彼の目的――を実現する。この従属は……労働の全期間にわたって労働する諸器官の緊張のほかに注意力として現れる合目的的な意思が必要とされる」

 

③「クモは織布者の作業に似た作業を行うし、ミツバチはその臘の小屋の建築によって多くの人間建築師を赤面させる。しかしもっとも拙劣な建築師でももっとも優れたミツバチより卓越している点は、建築師は小屋を臘で建築する以前に自分の頭の中でそれを建築していることである。労働過程の終わりには、そのはじめに労働者の表象のなかにすでに現存していた、したがって観念的にすでに現存していた結果がでてくる」(資本論第一部)。 

  <人間は物質的活動、その経験の中で既に知っている方法と法則に基づいて、予め目的とする生産物の完成形態を観念的に脳裏に描き、そこから逆規定して、労働の各段階に適合する諸器官――彼の肉体にそなわる自然力,腕と脚の機能やそれを制御する神経系統に緊張と刺激を与える。同時に、自然素材の形態や性質、生産方法や方式、手順といった経験とその反省、感覚を頭脳に取り込み対象化する。また、それまで知り得た知識と比較し、修正を加え、豊富化する。つまりこれが労働過程に対応した意識の生産ということである>

 

④ 『資本論』では、「単純で、抽象的な契機」としての「労働過程」、いうなれば物質的性格に論点が絞られており、労働者の内面的、観念的な意識の形成や自己と他者との間、つまり協働によって形成される意識の問題についての論述はない。論点が散漫になるのを避け、価値法則に絞るねらいがあったのかもしれない。

   とはいえ、人間が人間として定立して以後の労働過程が、現実には全く誰の協力もなしに孤立的に行われてきたと考えることはできない。したがって端緒的な労働過程といえども、他の労働者との社会関係が考察されなければならない。意識の発現であり他者との交通形態でもある言語とともに、そうした労働過程を通じた他人との協働における意識の生産、すなわち類的存在としての自分以外の人間を認識し、そうすることで自分自身を対象化する、まさに自然素材に対する対象化、内在化と同じような意識の形成が人間対人間の関係においても行われてきたと考えられる。

 

⑤ 資本が生産手段を占有し、労働力を市場で商品として買い、生産過程では、労働過程が作り出した使用価値を投入し消費する。これが資本による商品生産の決定的な前提条件である。ところが労働力商品は、一般の生産物商品とは異なり、特殊な性格をもつ。労働力商品の使用価値をなす労働が、価値を形成するというだけではない。  第一に、生産物の価値のように、その再生産に要する労働時間によって規定されるのではない。労働力の価値を決定するのは必要生活手段の価値であり、その質と量は、歴史的・文化的条件に依存する。第二に、労働力は生産過程で支出されてはじめて価値および剰余価値を生むが、そのために労働過程は資本によって管理される。第三に、労働力の再生産には資本は介入しえない。そして第四に、このように、生産手段と労働過程が資本によって管理されつつも、労働者が労働過程の中で作られる意識――物質的素材と協働の中で形成される社会的・人間的関係を対象化し、その経験の蓄積を通して普遍性、法則性を認識、再認識するという内面的プロセス、労働者自身の脳の中に刻み込まれた知識や意識は労働者自身の属性であり、資本によっても決して支配されることはない

   労働者が「労働過程」における自然素材および、この過程でとり結ぶ社会関係の対象化、内在化=意識の形成、その経験の中から本質的、法則的なものを掴みとる能力は人間としての彼の属性であり誰も奪い去ることはできない。 

(にもかかわらず、ブルジョアジーは労働者階級が取り結ぶ社会関係を切断し、彼の人間性そのものを破壊する。資本主義のもとではこの矛盾を解決し得ない)

   ところで、人間は自分がある目的のために活動(労働)する場合、予め頭脳の中で観念的なイメージを描き、それが全面的、具体的、合目的的であればある程、自分の行動の結果に対して確信を深めるのである。

その意味で扇動そのものは労働者階級だから有効ということでも、レーニンの専売特許でもない。ブルジョアジーはブルジョア的利益を満たすことができると確信させる扇動があれば、どれほど無慈悲で非人間的な手段であろうとためらうことがないのはわれわれが知っている通りである。

    レーニンは、労働者階級にとって全面的で、全社会的な政治的関係の生き生きとした暴露が必要なこと(にもかかわらず、これまでやられてこなかった)を強調しているのである。それがあれば労働者階級は自然発生的な経済闘争だけにとらわれることなく、自らの進むべき道をイメージする能力をどの階級にもまして身につけているからである。

  

4)経済主義とテロリズムには何か共通点があるか

 ここでは何が問題になっていたのか。

当時のロシアの革命運動が「経済主義」に占領されてしまったがゆえに、党が「革命的活動を労働運動に結び付けて渾然一体化する能力」を形成し得ない、あるいはその可能性を絶たれてしまった。その結果としてテロリズムが発生したということである。

そして、これについてレーニンは経済主義とテロリズムは、どちらも「自然発生性の前に拝跪する」という点で共通の根をもっていると指摘している。

「『経済主義者』は『純労働運動』の自然発生性の前に拝跪するし、テロリストは革命的活動を労働運動に結び付けて渾然一体化する能力をもたないインテリゲンチャの最も熱烈な憤激の自然発生性の前に拝跪する」(P115)。

(どのような状況が自然発生性への拝跪をうみだすのか)

経済主義  →①労働運動の停滞期。

       ②労働運動の高揚への革命党の立ち遅れ

テロリズム →①労働運動の高揚、「経済主義者」との結合。②政治的憤       

        激の高まり  

両者の共通点は、革命運動において「革命的活動と労働運動とを結びつける能力」をもった党がつくり出せないという問題である。

「問題はこうなのだ。労働者大衆はロシアの生活の醜悪事によって大いに興奮しているのだが、…人民の興奮の水滴と潮流をことごとく寄せ集め、集中する能力が、われわれにないのである。そういう水滴と潮流は、われわれの想像たり考えているよりもはるかに大量に…したたりおちている。それらはまさに単一の巨大な流れに結合されなければならない」(これは全く実現可能な任務であるのに)「テロルの呼びかけも、経済闘争そのものに政治性をあたえよという呼びかけも、ロシアの革命家の最も緊急な義務――全面的な政治的扇動の遂行を組織すること――を回避する別々の形式」なのである。(P119)

 

→逆の言い方をすれば「全面的な政治的扇動の組織化」がいかにハードルの高いものであるのか、ということであり、その意識性からの逃避、すなわち日和見主義ということなのである。

 

【われわれはテロル一般を否定する訳ではいない】

 「われわれはけっして原則上テロルを拒否しなかったし、また拒否することはできない。…

  テロルは戦闘の一定の瞬間には…また一定の諸事情のもとでは、まったく有用な…軍事行動の一つ」である。ただし、それは「闘争の全体系と密接に結びつき、それに適合させられた野戦軍の作戦の一つ」として提出されなければ、「時宜に適さない、目的にかなわないものであって、もっとも活動的な闘士たちを彼らのほんとうの、運動全体の利益にとってもっとも重要な任務からそらせる」ものである。(→「なにからはじめるべきか」)

  

5)民主主義のための先進闘士としての労働者階級

「もっとも広範な政治的扇動をおこなうことと、したがってまた全面的な政治的暴露を組織することが、いやしくも社会民主主義的な活動にとって絶対に必要な、最も緊急に必要な任務」

である理由

①「労働者階級が政治的知識と政治的教育を必要としている」という理由だけではあまりに狭く、あらゆる社会民主党の一般民主主義的任務を無視することになる。

 

②労働者に政治的知識をもたらすためには、社会民主主義者は、住民のすべての階級の中にはいってゆかなければならない。

→「階級的・政治的意識は、外部からしか、つまり経済闘争の外部から、労働者と雇い主との関係の圏外からしか、労働者にもたらすことができない。

この知識を汲みとってくることができる唯一の分野は、すべての階級および層と国家および政府との関係の分野、すべての階級の相互関係の分野である」 (P120)

 

③「社会民主主義者の理想像は、労働組合の書記ではなくて、どこで行われたものであろうと、またどういう層または階級にかかわるものであろうと、ありとあらゆる専横と圧制の現れに反応することができ、これらすべての現れを、警察の暴力と資本主義的搾取とについてのひとつの絵図にまとめ上げることができ、一つひとつの瑣事を利用して、自分の社会主義的信念と自分の民主主義的要求を万人の前で叙述し、プロレタリアートの解放闘争の歴史的意義を万人に説明する事のできる人民の護民官でなければならない」(P122)

 

→「プロレタリアートの政治的意識を全面的に発達させる必要を、ただ口先だけで主張しているだけでないなら、住民のすべての階級のなかに入っていかなければならない」

では「住民のすべての階級のなかに入っていく」とは

・どのようにやるのか? 

①「理論家としても、宣伝家としても、組織者としてもそうしなければならない」

 レーニンは、社会民主主義者の理論活動は、それぞれの階級の社会的・政治的地位のあらゆる特殊性の研究を目標としなければならない。この点で労働者の(工場)生活の特殊性についての研究に比べて、他の諸階級・諸階層の研究は立ち遅れていることを指摘し、党の理論活動のバランスの悪さを反省し、この領域での『訓練不足』の克服が必要だ、と述べている。

②「全人民にむかって一般民主主義的任務を説き、これを強調する義務があること――しかも自分の社会主義的信念を一瞬もつつみかくすことなく――を、実際に忘れるもの」「あらゆる一般民主主義的問題を提起し、激化し、解決する点でだれよりも先んじなければならない自分の義務を実践において忘れるものは社会民主主義者ではない

・人手はあるのか? ……いたるところに運動に参加したか、参加を希望しながらも、社会民主党に心をひかれながらも、余儀なく何もせずに日々をおくっている人がいる。

「われわれにこういう勢力の全部を働かせ、全員に適当な仕事を与える能力がない」ことが政治上、組織上の欠陥だ。(P131)

 そして、「労働者に真の、全面的な、生きた政治的知識を供給するためには、いたるところに、あらゆる社会層のなかに、わが国の国家機構の内面的ばねを知る便宜のあらゆる部署に『仲間』が、社会民主主義者がいること」は宣伝と扇動の部面だけでなく、それ以上に組織の部面でも必要だ。

・基盤はあるのか? ……社会民主主義者が、「もっとも焦眉の一般民主主義的な必要の表明者」であったならば、住民階級のなかで無権利や専横に不満をいだいており「これを容易に受け入れることのできる人々やグループ」が一つも存在しないはずがない。

・階級的見地から逸脱することにはならないのか?……「これらの全人民的暴露を組織する者がわれわれ社会民主主義者である点に、つまり、扇動によって提起されるいっさいの問題が、一貫した社会民主主義的精神にたって解明される点に、すなわち、この全面的な政治的扇動をおこなう者が、全人民の名による政府に対する攻撃をも、プロレタリアートの政治的独自性を守りながらおこなわれるプロレタリアートの革命的教育をも、労働者階級の経済闘争の指導をも、つぎつぎにプロレタリアートの新しい層をたちあがらせてわれわれの陣地に引き入れるような、労働者階級とその搾取者との自然発生的な衝突の利用をも、不可分の一体に結び付ける党である点に、わが運動の階級性が現れる。」(P135)

  

→「プロレタリアートが最も緊要に必要としている事柄(政治的扇動と政治的暴露とによる全面的な政治教育)と、一般民主主義的運動が必要としている事柄との結びつき、いやそれ以上だ、この一致を理解しないことこそ『経済主義』の最大の特徴の一つ」である。(P136)

 

6)もう一度「中傷者」、もういちど「瞞着者」 (略)